VERYFAIRY もしくはセミオペラの勝利

地元の音大(在学生及び卒業生)と演劇学校のコラボによる、セミオペラVERYFAIRYは
パーセルの『妖精の女王』翻案舞台として画期的に素晴らしい出来だった。

c0188818_18404958.jpgTekst: William Shakespeare |
Muziek: Henry Purcell |
Vertaling: Johan Boonen |
Regie: Aram Adriaanse | Regie-assistentie: Amanda Dekker |
Muzikale leiding: The Continuo Company onder leiding van
Arjen Verhage en Jenny Thomas |
Spel: Alex Hendrickx, Bart Bijnens, Sofie Porro, Willemien Slot |
Zang: Mami Kamezaki, Sandrine Mairesse, Florence Minon,
Krisztián Egyed, Raoul Reimersdal |
Begeleidend ensemble: The Continuo Company onder leiding van
Arjen Verhage en Jenny Thomas en studenten Conservatorium
Maastricht |
Toneelbeeld: Rebecca Downs |
Kostuums: Frances Loch |
Coaching zang: Claron McFadden, zangdocenten Conservatorium
en Toneelacademie |

VERYFAIRY 2016年2月25日@Toneelacademie Maastricht

舞台は一面に15センチくらいの長さの黒いひも状の繊維が厚く敷き詰められ、左奥に
器楽演奏家(チェンバロ、テオルボ、ハープの通奏低音、リコーダー3名とヴァイオリン4名)
が陣取っている。正面奥に映写用に使われるようなスクリーン状の幕が下がっている他、
大道具は天井からかなり下の方に下げられたPL電灯が4、5個のみ。そのうちの一つは
舞台で座れるほどの高さに降りていて、すなわちベンチやブランコとして使用。

序曲の場面では、男女のペア4,5組が半円の形に立って微笑み見つめあいながら、一人
ずつ移動しては次つぎと異なるカップルを形成していく。展開されるストーリーをここで示唆し
ている。

そのうち白い服の男女4人が芝居の登場人物で、青い服の男女5人が歌手であることが
後でわかるのだった。すなわち、白い服の男女は人間で、青い服の男女は妖精である。

シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に基づいてパーセルが作ったセミオペラ『妖精の女王』は
それまでに2回、生で鑑賞しているのだが、いずれもこのジャンルの上演の難しさが痛ましい
ほど実感できるのであった。
そのうちの一つはいかにも苦労してセミオペラという形式に則りましたという感じで、役者が
語る台詞(ほとんど朗読)とダンス、歌手が歌う歌と器楽演奏とが、分離したまま全く
有機的に結合されていない演出で、咀嚼不足感が免れないものであった。
次に鑑賞したのは、コンセルトヘボウでのコンサート形式で、ヨハネット・ゾマーがメインのソリ
ストである以外は合唱団員がソロ・パートを歌うというもので、それもまた台詞が省かれている
分、そしてゾマー以外の歌手に華がない分、中途半端な出来であった。

しかるに、今回は学生がメインである故、歌は少々迫力不足であるものの、演劇学生による
芝居の熱演がそれを補って余りある、見応えのある舞台になっているのだった。
今回初めて、このセミオペラのよさがわかり、心から楽しめた。
パーセルらしが凝縮された音楽が、夢と現、魔界と人間界、森と町、男女という様々な対極を
きらびやかに映し出す。リサイタルなどで歌われることが多い珠玉のようなそれらの歌の一つ
一つがストーリー展開に繋がりセミオペラの全体を成すと、その良さがより一層しみじみと味わえ
るのだ。今までにない満足感を得ることができた。

それはなんといっても、舞台上を飛び回り、転げまわり、もつれあい、怒鳴り合う、2組のカッ
プル、ハーミアとライサンダー、ヘレナとディミートリアス役4人の役者の演技の迫力に負う
ところが多いのだが、演奏される音楽も歌も演技と隔離せず、しっかり寄り添うようにできて
いる演出も素晴らしい。
歌手も演技に加わるし、役者も歌う。人間と妖精との違いが説明がなくとも白と青の衣装と
いう見かけでハッキリと区別されているのがポイントである。妖精達には女王や王という威厳
はなく、(ティターニアとオベロンのケンカは省かれて、人間カップルのドタバタだけにストー
リーは集中)悪戯っ子達の集まりのようなシンプルさもいい効果を生んでいる。
(ダブルいざこざというシェイクスピアらしい楽しさが省かれてるのは遺憾ではあるが、若さに
焦点を当てるというコンセプトが理解できる)

セミオペラ成功のカギと言うのは、あれもこれもと様々な要素を入れ込まずに、一点集中
(今回は人間カップル2組のごたこたの芝居)することで、歌や器楽演奏など、他の要素が
かえって生きてくるし聴きごたえあるという、一見逆説的ながら素晴らしく効果的ですっきり
する答えがここに示されたのだった。

10月にアカデミー・オブ・エインシェント・ミュージックがイエスティン・ディヴィスを含むソリストで
パーセル『妖精の女王』をセミ・ステージ形式で上演(多分ツアーで)するのだが、どういう
セミオペラになるのか、楽しみだ。
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# by didoregina | 2016-02-27 19:47 | オペラ実演 | Comments(0)

クリスティアン・ベザイデンホウトとアンネ・ソフィー・フォン・オッターのコンサート

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Ludwig van Beethoven Meilied opus 52 nr 4 (1805)
Sehnsucht WoO 146 (Die stille Nacht) (1816)
In questa tomba oscura (1807)
Aus Goethe’s Faust op. 75 nr. 3: Es war einmal ein König (1792/1809)

Wolfgang Amadeus Mozart Rondo in a KV511 (piano solo)(1787)

Franz Schubert Adagio in G D178 (piano solo)(1815)

Joseph Haydn Cantate Arianna a Naxos (1789)

Pauze

Adolf Fredrik Lindblad Der schlummernde Amor
Svanvits sång
En sommardag

Franz Schubert Der Winterabend D938 (1828)

Wofgang Amadeus Mozart Allemande from Suite in C KV 399 (piano solo)

Ludwig van Beethoven Rondo in C op. 51 nr. 1 (piano solo)(1796/97)

Franz Schubert Die junge Nonne D828 (1825)
Dass sie hier gewesen D775 (1823), An Silvia D891 (1826),
Der Musensohn D764 (1822)


先月は、我が町の我が合唱団の本拠地であるチャペルでクリスのコンサートがあった
というのに、その晩はロッテルダムのムジカ・エテルナのコンサートに行ってしまった。
今回は、クリスのフォルテピアノ伴奏でフォン・オッターが様々な歌曲やカンタータを歌うと
いう、なかなかめったに聴けないプログラムである。当然ながら、チケットは早くから
売り切れであった。

コンサート前にクリスによるフォルテピアノに関するプレ・トークがあるというお知らせが来た
ので、開演1時間前に会場に入るつもりだった。エイントホーフェンなら車でも電車でも1時間。
ホールは駅から徒歩5分なので電車で行くほうが安上がりと、早めに家を出たのだが。。。
駅に着いたらOVカード(スイカみたいなプリペイ・カードでオランダ全国の公共交通機関
共通)を忘れて来たことに気付いた。私のは平日朝9時以降と週末は一日中40%オフ
になる記名式アボネ・カードなので、これがないと痛い。主人に電話し持ってきてもらうが、
電車を一つ逃してしまった。
当初の予定より20分ほど遅れてホールに到着、トークはすでに始まっていたが、2階バル
コンにそっと入れてもらえた。

クリスは、なかなか素敵な私服にトレンディな横長の大き目のプラスチック・フレームの眼鏡、
カットしたばかりの新しい髪形で、舞台に立ってモーツアルトやロマン派の鍵盤曲をフォルテ
ピアノで演奏する意義(多分)というテーマで話している最中であった。
しかしながら、私が入ってから1,2分経つとトークは終わり、質疑応答になってしまった。
つまりトークのほとんどの部分を聴き逃したことになる。トークと質疑応答で印象に残っている
のは、「古楽の盛んなこの辺りではフォルテピアノ演奏というものが当たり前のように普及して
いるので聴衆にシリアスに受け止められ演奏会もしやすい。まだまだフォルテピアノ未開発の
ところに行くと、まるで見世物みたいなノリで聴きに来られる。」と、「シリアスに」という
単語を2回使って、普及活動に奮闘する彼の別の姿を垣間見せてくれたこと。
なるほど、そういえば、3年前の名古屋でのクリスのフォルテピアノ演奏会終演後、聴衆は
舞台に上がらせてもらえ、フォルテピアノを間近に(多分初めて)見る機会を与えられ、
調律師だったか楽器の持ち主だったかに色々説明を受け、楽器を取り囲んだ皆さんは興奮
気味だった。
まるで、種子島への鉄砲伝来、みたいなノリ。聴衆の大部分はフォルテピアノという珍しい
楽器に遭遇できたことで浮きたち、そのため、フォアイエでのご本人のサイン会は閑古鳥という、
ちょっと哀しい状況が展開したことを思い出した。まさしくあの時、フォルテピアノの存在自体が
見世物であった。。。。

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さて、コンサートが始まるとクリスのフォルテピアノ伴奏とフォン・オッターの歌唱との相性は
いかに、というのがまず一番の関心事だった。
私の座席は、小ホール右側バルコンの最前列で舞台に近く、舞台を斜め上から見る位置で、
フォルテピアノ演奏を聴くにも、歌手や演奏者の顔の表情を見るにもよい席だった。
このホールはこじんまりとして、余分な残響が全くなくドライに近いがニュートラルな音響で、
今回のようなコンサート(歌曲リサイタル)にはぴったり。
使用されたフォルテピアノに関する説明もプレトークではあったのだろうが、遅れたため
聞き逃した。
プログラムおよび楽器デザインから察するに、1800年から1830年代のウィーン製ではない
かと思われる。多分オランダのコレクターの持ち物で、今までにもこの楽器による演奏を何度か
聴いたことがあるはずだ。

この晩のフォルテピアノの音色は、歌手に寄り添う伴奏としての絶妙なニュアンスと色合いが
いつもより明白であった。ペダルを使って強弱の幅が広く出せるようで、特に力をふっと抜いた
弱音でのさりげなく美しい音がため息のように聴こえるのだった。それは、クリスの表現力の
またしても進化と呼ぶべきものか、伴奏者として歌手に息を合わせるためのテクニックゆえ
なのか。
フォン・オッターの歌唱も、肩の力を抜いたような、いささかも力を込めすぎず、自然な美しい
発音と発声で聴く者の心をほっこりさせる。ベートーベンの歌曲は今まであまり聴く機会が
なかったが、いかにもドイツ語らしい脚韻がリズミカルなのだが大仰でなく典雅。
前半最後の曲、ハイドンのカンタータ『ナクソス島のアリアンナ』が白眉で、イタリア語でかき
口説くように歌われる嘆きの歌が耳に懐かしい。オペラチックかつドラマチックな盛り上げ方も
大人の余裕と言うか、抑制が効いていて上品なのだった。また、彼女が出演するオペラを
生で聴きたい。(多分、この夏実現するはず。)

歌の合間に4曲ピアノソロが入るのだが、いずれも珠玉というべき小品で、クリスのフォルテ
ピアノ演奏では、こういう曲を聴くのがバリバリと弾くソナタよりもずっと楽しみなのだ。
自分もピアノで習ったことがある、難易度的にはそれほど高くない曲ばかりだが、彼によって
弾かれると、子供っぽさがまるでなく、流麗でいて可憐、しかも仰々しいロマンシズムに走り
すぎず、なるほど、これこそ究極の中庸の美だ、と目から鱗がポロポロ落ちるのだった。
そして、彼のように弾いてみたいという思いに駆られるのだ。
(今回、歌の伴奏の時だけでなく、ソロでも全部楽譜を見ながら弾いていた。クリスが暗譜で
なく演奏するのを見るのは初めてではなかろうか。また、顔芸も以前ほど大仰ではなくなって
いるように思えた。)

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この二人の相性は抜群、しかもフォン・オッターの声とフォルテピアノとの相性も抜群ということが
しみじみと感じられるコンサートだった。
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# by didoregina | 2016-02-14 19:04 | コンサート | Comments(0)

Ariodante @ DNO  サラ様『アリオダンテ』は「小間使いの日記」風

サラ・コノリーが題名役、ポリネッソ役にソニア・プリーナ、そしてダリンダ役がサンドリーヌ・
ピオーというトリプルSが揃い踏みの期待の舞台『アリオダンテ』@DNO千秋楽公演を鑑賞
した。このプロダクションは、エクサンプロヴァンス音楽祭との共同制作で、かの地では2年前
のフェスティヴァルで上演され賛否両論かしましかった。全編がYTにアップされているが、
わたしは敢えてアムステルダムでの実演鑑賞までサラ様の歌う場面を除いては見ないように
して、ほぼ白紙の状態で臨んだ。

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2016年2月3日 De Nationale Opera & Ballet in Amsterdam
Muzikale leiding Andrea Marcon
Regie Richard Jones
Decor en kostuums Ultz
Licht Mimi Jordan Sherin
Choreografie Lucy Burge
Regie poppenspel Finn Caldwell
Ontwerp poppen Nick Barnes en Finn Caldwell
Orkest Concerto Köln
Koor van De Nationale Opera i.s.m. jonge zangers in het kader van De Nationale
Opera «talent»
Instudering Ching-Lien Wu

Re di Scozia Luca Tittoto
Ariodante Sarah Connolly
Ginevra Anett Fritsch
Lurcanio Andrew Tortise
Polinesso Sonia Prina
Dalinda Sandrine Piau
Odoardo Christopher Diffey
Poppenspelers Sam Clark, Kate Colebrook, Louise Kempton, Shaun McKee

舞台は、いかにもリチャード・ジョーンズ好みの例のあれ。と言うだけではピンとこないという
向きのために補足すると、質素な内装の家の天井・屋根と客席に向いた正面の壁一面を取り
払った造りで、下手から玄関、キッチン、ダイニングルーム、ジネーブラの部屋と一列に続き、
その中でホームドラマが演じられるという仕掛けである。
原作ではスコットランド王家の権力争いと愛憎が交錯するドラマだが、時代設定はインテリアや
衣装から察するに前世期後半あたりで、王家は寒村の人々の支持と忠心を受ける有力者の家系
もしくは因習に縛られた素封家に置き換えられていて、違和感はない。
登場人物には高貴な家柄らしき人はいず、アリオダンテは漁師、ポリネッソは牧師、ダリンダは
王女に仕える侍女ではなく、小間使いという趣。

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スコットランド辺境の寒風吹きすさぶ小さな漁村では、牧師の持つ権力・影響力には想像を絶
するものがあることは徐々に明らかにされるのだが、序曲の間、牧師ポリネッソが説教を行い、
聴こえないその言葉が字幕に出てくるという点にもまず強調されている。
そして、神の威光で人々を目くらましにして自らの欲望のおもむくまま、悪事を働くのである。
そのポリネッソ役のソニア・プリーナの演技の上手さ。憎まれ役ながら、役得とも言えるのだが
この村を裏から支配しているのは、村長(王)ではなく、因習・妄信を利用したポリネッソなのだ
ということを体現している。
彼女は小柄ながら、ヘアメイクと衣装と態度とドスの利いた低音の独特の声で、嫌な男ポリネッ
ソを堂々と好演。ただ、今回は、どうも声があまり飛ばず、難しい低音域でのアジリタの切れが
イマイチだったのだけが、残念だった。

そのポリネッソに横恋慕されるイノセントそのもののジネーブラ役は、アネット・フリッチュ。彼女の
実演は初めて聴くのだが、特に秀でた個性はないものの無難にこの役を務めた。牧師に凌辱され
無実の罪を着せられ、精神的に不安定になり、だれからも理解されずに墜ちて行くという、哀れを
極めるこのジネーブラは若い女性の存在がいかに簡単に悪漢の餌食となりうるかという弱者その
ものの存在を示すのだが、最後のシーンでは、弄ばれるだけだった弱い女が自らの意志を持って
家を出る強い決意の表れという風にも受け取られる。

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ジネーブラと相思相愛のアリオダンテは、若いためか人生経験が足りず、ちょっとした諫言を信じて
ジネーブラから去り、絶望のあまり自ら海に飛び込む。最初から最後まで一貫して弱々しい男という
難しい設定で、それをサラ様はどう演じて歌うのか、これがまず第一の見どころ・聴きどころである。
この辺りが予想以上に説得力あるドラマになっている演出の力、ジョーンズの目の付け所にまず
脱帽した。北欧映画のようにリアリスティックかつシリアスな芝居構成になっていて、それを粘っこ
いまでにスローテンポの音楽でこれでもかと悲劇性を上塗りしていくのである。
だから、アリオダンテの絶望の歌Scherza Infidaは、なんと13分にも及ぶ。前奏からしてもう
ヴァイオリンの演奏もタメを効かせた演歌調。これ以上スローにしたら歌えないのではないか、と
危ぶむほどのテンポをマルコンは破綻させずに最後まで持っていくのだった。演出に合致した演奏
とテンポであるが、マニエリスティックになるぎりぎりの線だ。
サラ様は、顔面蒼白でしかも呆然自失という態で、しかし歌い方は比較的淡々としていた。今まで
サラ様の歌うこのアリアは実演を2回聴いているのだが、今回のは非常に異質というか異常性を
前面にだしたものだった。
あまりに悠揚迫らずくどいほど粘液質の演奏であったためか、途中でフライング拍手が、多分若い
観客から起きてしまったほど。しかし、緊張感はそのまま二度の休憩を経ても続いたのだった。

このシリアスなホームドラマの最初から最後まで舞台にほぼ出ずっぱなしなのが、ダリンダである。
サンドリーヌ・ピオーのあっさりした存在感ある演技と、それに反して情熱ほとばしる歌唱とが全編
を引き締める。「あなたがジネーブラ役ではないのが残念」と丁度一年前『アルチーナ』に主演
した時、サイン会でピオーに言ったのだが、「いえ、歌は比較的少ないけど、重要な役で大変
なのよ」とか何とかの返事だったように思う。
小間使いの屈折した心理、クルクルとネズミのように健気に働き、主に尽くさなければならない
立場をわきまえてはいるものの、愛と人並みの幸せを得たいという儚い望みと裏腹の、主人に対
するジェラシーと意地悪な気持ちが抑えてはいても出てくる。そういう人物設定のダリンダ=ピオー
が、このプロダクションでは光る。

人形劇を挿入して、アリオダンテとジネーブラの未来(夢と現実)を予言し表現するという手法も
絶品。
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ありえねえ、と切って捨てられるような展開や場面がなく、悲劇が淡々と北海の荒い波のように
押し寄せ緊張感のあるドラマなのだが、最後にポリネッソが倒され悪事を告白、正義は勝つという
展開になった時はそれまでの流れに比較してご都合主義に感じられたのか、客席から笑いが出た。

Dopo Notteは通常、暗い夜の闇が去ったという歓喜のアリアなのだが、このプロダクションでは
手放しで喜べないエンディングになっているため、サラ様の歌にも感情はごくごく抑えられていた。
この歌でば~っと一気にカタルシスという具合には行かないのが残念だが、さすがサラ様、微妙
な状況と心情を、絶妙に歌っている。コンサート形式であったら、ここで一気に最高潮に登りつめ
るのだがなあ、とファンとしてはほんのちょっぴり心残りだが、それを望んではいけないのであった。

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# by didoregina | 2016-02-06 20:13 | オペラ実演 | Comments(0)

Son of Saul  『サウルの息子』

2015年のベスト映画として各紙・誌および映画評論家・愛好家から絶賛の話題作だ。
昨年なぜか見逃したのだが、昨夜リュミエールで一回こっきりアンコール上映された。
(マーストリヒト大学Studium Generaleと提携、国際ホロコースト記念日の一環として)

c0188818_2014398.jpgDirected byLászló Nemes
Produced byGábor Sipos Gábor Rajna
Written by László Nemes Clara Royer
StarringGéza Röhrig
Music byLászló Melis
CinematographyMátyás Erdély
Edited byMatthieu Taponier
Production
Hungarian National Film Fund
Laokoon Film Arts
Laokoon Filmgroup
Distributed byMozinet
Release dates 15 May 2015 (Cannes) 
CountryHungary
LanguageHungarian Yiddish German



ホロコーストをテーマとした映画は、戦後70年以上経った今も毎年のように作られている。
鑑賞後数日間は心も頭もそのことで占められて重く暗くなるのが私の場合通常で、考えさせ
られることが多く観たことを悔いることはなく人にも鑑賞を勧めるものであるが、正直なところ、
どれももう一度観たいとは思わない。

この映画の素晴らしい点・新しい点は、ひたすらダイレクトに主人公の視点と心情に沿って
淡々と収容所の過酷な日常を見せることに終始し、しかもそれがスリルに満ち満ち、展開に
予想がつかないため、2時間がアッという間であった。
題名の『サウルの息子』というのは、観る前は単に比ゆ的な意味で、聖書からの引用が
背景の文学的な意味合いなのだろうな、と思っていた。しかし、まさにそのものズパリ、
主人公の名がサウルで、その「息子」を人間らしく弔い埋葬したいという一途な思いと行動を
描く映画なのだった。

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ユダヤ人のサウルは、毎日次々と収容所に送られてくる同胞であるユダヤ人たちをガス室に
送り、死体をごみのように処理するという過酷な労働を科されている。機械的に冷徹に重い
業務を果たすことでガス室送りを先延ばしにされているのだ。凍り付いたようなサウルの表情
から感情は全く読み取れない。少しでも長く生き延びるるために感情を抹殺してしまっている。
ある日、清掃の最中、ガス室を奇跡的に生き延びた少年を見つける。しかし、少年は収容所
の医師によってすぐに命を絶たれ、死体解剖の材料とされる。その少年を見たサウルは、
哀れさに胸を突かれ彼を自分の「息子」だと信じて、おもちゃのように解剖されごみのように
捨てられることから救おうとするのである。収容所での非人間的な労働のために氷と化していた
サウルの心が溶け、人間の尊厳を守らねばという気持ちに変わったのだ。
ユダヤ教のラビが祈り司る埋葬を行うため、決死のミッションを行う。

収容所でのユダヤ人特殊部隊はArbeit macht freiのスローガンの地を行くかのように、心身
ともに過酷な労働によって日々生き延びてはいるが、実際は「死んでいる」とサウルは言う。
「死んだ」身と心ならば今更失うものはない。せめて自分が殺される前に「息子」を人間らしく
埋葬したいという情熱は、良心の生きていた証しと言えるものだろう。
恐れを知らぬエネルギッシュな行動は、ギリシャ悲劇のアンティゴネを思わせる。それは、人間の
尊厳というものの原点を問い詰め、真摯さが観客に迫る。

決して明るいエンディングではないが、最後にようやくサウルが笑顔を見せるのだった。
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# by didoregina | 2016-02-02 21:29 | 映画 | Comments(0)

Dunedin Consort & Iestyn Davies @ Bruges Bach, sin & forgiveness

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23 January 2016 @ Concertgebouw Brugge

Johann Christoph Bach (1642-1703)
Ach daß ich wassers gnug hätte, motet

Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Brandenburgs Concerto nr. 6, BWV1051

Widerstehe doch der Sünde, BWV54

- pauze-

Dieterich Buxtehude (ca.1637-1707)
Muß der Tod denn auch entbinden, Klag-Lied, BuxWV76/2

Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Vioolconcerto in a, BWV1041

Vergnügte Ruh, beliebte Seelenlust, BWV170

Dunedin Consort: ensemble
Iestyn Davies: countertenor
Cecilia Bernardini: viool
John Butt: klavecimbel & leiding


バッハ・アカデミー・ブルージュ2016というミニ・フェステヴァルで、イエスティン・デイヴィスが
バッハ(親子)とブクステフーデを歌うコンサートである。これは何があっても聞き逃すことは
許されない。しかしながら、ブルージュというのは遠い。日帰りは不可能だ。それで一泊
旅行を兼ねて聴きに行った。

彼のレパートリーとしては、現代作曲家によるカウンターテナーのための曲やオペラ、パー
セル、ダウランド等のイギリス人作曲家によるリュート・ソング、ヘンデルのオペラとオラトリオ、
そしてバッハの宗教曲があり、そのいずれも魅力的なのだが彼の歌うバッハをこよなく愛する。
そして意外にも、受難曲やオラトリオはたまたミサ曲などを除いては、バッハのソロCDは出し
ていない。そしてリサイタルでバッハを歌うことはあまりないから生で聴くチャンスも少ないのだ。
(1昨年、ウィグモア・ホールで今回と似たプログラムのコンサートを聴いているが、昨年5月
のバッハ・コンサートは病気のためオックスフォードもロンドンも直前に降板した。)

と言うわけで、いかに私がこのコンサートを待ち望んでいたのかがお分かりいただけようと思う。
そして実際、コンサートで彼の歌声を聴いてみて、古楽のメッカともいえるベルギーでのバッハ・
ミニ・フェステヴァルでバッハを歌うことに、イエスティン君自身がかなり力を入れて臨んだという
ことがよくわかった。

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まず、最初のヨハン・クリスチャン・バッハ作曲のAch daß ich wassers gnug hätteから
渾身の歌声である。この曲はラメントすなわち嘆きの歌であり、胸の中に埋火のように燻る
塗炭の苦しみを甘い悲哀の吐息と共に吐き出す、という表現を期待したのだが、なんと、
今回は甘さを排して実に力強い歌唱なのに驚いた。一昨年のウィグモアで聴いたときとは異な
るアプローチである。言うなれば、辛苦の闇を突き抜けた後の己の姿を客観的に突き放して
眺めているかのようで、甘いメロディーを歌いつつ、悲しみの世界に酔っていないのである。

ドゥネディン・コンソートによる器楽演奏ブランデンブルク協奏曲第六番は、特にアダージョの
部分がよく歌って聴かせる演奏である。

父バッハ作曲のWiderstehe doch der Sündeをイエスティン君が歌うのは何度か聴いている。
今回は甘さを全く排除した男性的な直球型歌唱でドーンと来た。自信に満ち溢れた堂々たる
態度と声である。イギリス以外で歌う時には、緊張で顔面蒼白・表情がこわばっていることが
多いように見受けられるのだが、それは遠征試合に出場しているわけだから当然である。
他流試合に挑む侍みたいな気迫が漲っている。

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ブルージュのホール、コンセルトヘボウは90年代に建ったと思しい、古都には不釣り合いな
ほどモダンで大きなしかし赤レンガを縦のアクセントにした外観の美しい建物である。
そして、ほどよい大きさのホール内部の音響も悪くない。驚いたのは、そのサーヴィスのよさ。
4日間に渡るバッハ・アカデミー・ブルージュ2016のプログラム・ブックは小型ながら無料で、
全曲目の説明も載っているし、別紙に原語と対訳歌詞が付いてくるし、しかもステージ上には
字幕も出るのだった。
特にレチタティーボ部分の訳を字幕で読みながら聴くことができるのはとてもありがたい。

ブクステフーデの嘆きの歌をイエスティン君の歌唱で聴くのは初めてだと思う。
典雅な彩のこの曲は、しかし哀しみの淵に沈む自らを叱咤するような厳しい内容の歌詞を持ち、
やはり男性的なことこの上ない。力強い男声で歌われるとぴったりである。
今回、イエスティン君はどの曲でもメッサ・デ・ヴォーチェを多用している。そして、高音で終わ
るフレーズはピアニッシモにしたり、表現の仕方がサラ様の歌唱を思わせる部分があった。
それでいて、聴かせる部分では声を遠くまで飛ばす。カウンターテナーには珍しく豊かな声量を
誇りホール全体に響かせることも得意な彼であるから、低音も高音も自由自在にフォルテに
しても、全く無理を感じさせない。

このコンサートでのハイライトは、最後のVergnügte Ruh, beliebte Seelenlustだ。
アリア3部とレチタティーボ2部が交互に組み合わさり、華やかな高音を効かせた美しいオルガ
ン伴奏とで盛り上がる。歌とオルガンとの丁々発止とした掛け合いが実に楽しい。
彼のレチには弁士のような熱と勢いがこもり、まるで教会で説教を聴いている気分になる。
牧師のごとき、はたまたバッハの受難曲の福音史家のような粛々とした威厳に満ちているのだ。
めくるめくような音楽の波が、力強く押し寄せては引いていく。最後まで安定して、テクニック
には全く不満の残らない歌唱だった。

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一週間後に、日本での初のソロ・コンサートを武蔵野、名古屋、鵠沼で行うイエスティン君。
相棒トマス・ダンフォードの伴奏でしみじみとしたリュート・ソングを歌うプログラムは、パワフル
なバッハとは対照的で、彼の魅力の別の一面を見せ聴かせることになるだろう。
日本ツアーに同行できないのは悔しいが、コンサートの成功を祈ってやまない。
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# by didoregina | 2016-01-27 03:21 | イエスティン・デイヴィス | Comments(2)

Partenope @ Carre

この記事は本来ならばカテゴリー「オペラ・コンサート形式」に含まれるべきなのだが、
あえて、「カウンターテナー」に入れることにした。花形キャストであるフィリップ・ジャル
スキーのご家族に不幸があって、全公演出演をキャンセルすることになったといういわく
つきであるにも関わらず。
ツアー開始直前にPJのお父様の訃報が入り、その後の動向が心配になった。
結局、PJの代役としてヴェテラン・カウンターテナーのローレンス・ザッゾが全公演を歌う
ことになり、ファンの落胆と動転は大きかった。わたしもかなり暗い気持ちになり、ほとんど
気が進まなかった。
新譜CDでPJが歌うアルサーチェの声が耳の底にこびりついていて、彼以外は到底考
えられず、別の歌手によって歌われたら生理的拒否反応が起きそうな予感に慄いたのだ。
(カレ劇場正面に掲げられたポスターにも当然PJが大きく出ていた。)

c0188818_1873971.jpgPartenope (G.F. Händel)
17 januari 2016
Koninklijk Theater Carré, Amsterdam
Dirigent: Maxim Emelyanychev
Solisten: Karina Gauvin (Partenope),
Lawrence Zazzo (Arsace),
John Mark Ainsley (Emilio),
Emöke Barath (Armindo),
Kate Albrich (Rosmira),
Victor Sicard (Ormonte)












カレ劇場というのは、アムステルダム歌劇場(通称ストーペラ)から地下鉄で一駅先にあり、
アムステル川に面した19世紀の(新)古典主義様式の建物で、通常ここでは芝居やミュージ
カルはたまたサーカスなどが上演されていて、(コンサート形式)オペラ上演はほとんど行わ
れない。
この建物に入るのは初めてではなく、数年前、国家的イヴェントに招待された時、ここが
控え室として使われたため、内部の様子は知っていた。しかるに、コンサートやオペラを
ここで聴いたことはないので、音響的には一抹の不安を胸に抱いていた。
客席は平土間面積が広く、(半)円形に近い緩やかな雛壇のようなバルコンが数層取り囲む
造り。コンサート形式での上演のため、舞台後方は黒い幕で覆って面積を小さくしていた。
音響はデッドであるが、横幅のあるホールにしては隅の方でも全然問題なく聴こえたと友人は
言うし、こういうコンサート形式のバロックオペラの会場としては悪くないのではないかと思う。
コンセルトヘボウ以外に、ここにもっともっとバロックオペラを持ってきてもらいたい。

閉口したのは、椅子が2席ずつくっついていてしかもガタピシしていることで、隣に座ったフラ
ンス語話者巨漢オヤジがやたらと体を動かすたび、並んだ私の椅子も連動して不快な振動が
伝わるのである。(そいつもその連れの奥さんと思しき女性も相当非常識な輩で、割と後に
なって着席したのに同じ列の隣人への挨拶もなければ、終始落ち着きなく体を動かし、
奥さんは一幕目の最中なぜか外に出て行った。同じ列の人たちを立たせて。)
そのオヤジは、音楽に合わせて体を動かすのみならず、軽快なリズムのロスミラのアリアで
足拍子を始めてしまったのだ。し~っと手で押さえる仕草をするもそいつには通じず、私の
椅子もまた別隣の椅子も不快にギシギシと動き出し船酔い寸前。いくらなんでも無礼すぎると
頭にきて、「お願いですから、止めてくださいませんか?」と慇懃無礼に英語で言うまで
椅子は気持ち悪くグラグラ揺れ続け、音楽に専念できなかったのである。(ホールで傍若
無人に振る舞う輩ほどピシャリと叱ってたしなめると、青菜に塩のごとくしゅんと縮こまるのも
不思議だ。普段あまりに横柄で態度がでかいため非常識を注意する人が少なく、そういう
経験に乏しいのだろうか。)

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さて、肝心の音楽である。古楽オケのイル・ポモ・ドーロを、昨年末付けで指揮者のリッカルド・
ミナシが脱退していたというびっくりニュースが入ったのは年が明けてからで、CDは彼の
指揮で録音されていたのに、ツアーでは急遽、マキシム・エメリャニコフにバトンが渡された。
前回の『タメルラーノ』でも同様で、録音指揮ミナシ、実演指揮マキシム君というパターンが
続いた。
こういう場合、楽団員も歌手もCD録音のため練習を重ねているし、指揮者が急に代わっても
どうということなく上手くいくものなのだろうか。私には、前回も今回もマキシム君の指揮は
どうもなんだか空回りしているように見えた。彼の若さと情熱あふれる指揮と指示に楽団員は
さほど反応しないで演奏しているように思えるのである。齟齬とまでは言うまいが、熱が伝わ
らない感じだ。今後彼らの関係はどうなっていくのか、次回CD録音とツアーが待たれる。

歌手はCD録音時とは、パルテノーペ、アルミンド、エミリオ役以外は変わってしまった。
しかし、誰一人として質的に落ちるという印象は全く与えず、役柄になりきって堂々と歌って
いるので安堵し、満足した。
パルテノーペ役のカリーナ・ゴーヴァンはいかにも女王然とした貫録で、最初から最後までパワー
全開、満々たる声量を出し惜しみせず圧倒的。彼女の場合、ガタイが大きいから声も大きい
という単純な図式だけが当てはまるのではなく、しっかり歌心を掴んでの情緒の表現が巧み
である。
気高い女王でも隠せない女の性の哀しみとでもいうものをしみじみと歌ってほろりとさせる。
血の通った肉体の心情を歌に込めるのである。技術的にも軽々とトリルのころがせ方がまろ
やかな声質と相まって心地よく耳に響く。

もう一人のソプラノ、エメケ・バラートは、ゴーヴァンとは好対照である。すなわち、ルックス
的には細身で、映画『ブレード・ランナー』のレイチェル風のエキセントリックなキュートさの
あるズボン役。
声はといえば、少しメタリックな芯のある硬質さと若々しさを兼ね備え、以前聴いたときより
格段に上手くなっているのと声の変化しているのに驚いた。バロック系ソプラノでは他にちょっと
似た人が思い浮かばないタイプの少し男性的な張りのある声質である。今後ますますの活躍を
期待したい。

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エメちゃんと同じくCD録音時からのオリジナル・キャストであるジョン・マーク・エインズリーは、
私服で眼鏡掛けて歌うと特に年寄りっぽく見えるのだが、明るく気品のあるテノールの声には
外見とは裏腹に若々しい張りがある。テノールは大体悪役を演じなければならないヘンデルの
オペラでは、全体の格調を高めるめにかえって品格ある声と歌唱は欠かせないが、なかなか
いい人材は得難いのも事実である。エインズリーの天性の声の魅力がこの役によく生かされて
いた。

メゾもバリトンも録音とは別のキャストになったが、ケイト・アルドリッチもヴィクター・シカードも
堂に入ったもので、無理のないきれいな低音の魅力で全体を〆てくれた。

なんと言っても今回のツアーの最功労者は、カウンターテナーのローレンス・ザッゾである。
ポスターにもなっている花形PJの急きょ代役というプレッシャーは多分あったに違いなく、口は
真一文字に結び、まるで敵を迎え撃つ侍みたいに隙のない目つきで舞台に登場した。
最初の一声は、あのPJの甘く澄んだ声とはもちろん異なるし、聴く側も心構えができていたが、
やはり予想した通り違和感が大きかった。しかし、ザッゾにはザッゾの個性があるし、それは
それでなかなかいいものだ、という思いに段々変わり、ノーブルで男性的な声の魅力にいつの
間にか囚われて行った。アメリカ人なので、アングロサクソン系・教会系の直球型歌唱かと思い
きや、オペラチックな表現力に富み、ふくよかさと軽さの同居した声はすがすがしく、しかも余裕
とも言うべきテクニックをそこかしこに散りばめて、思わず聴きほれてしまう。

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ヴェテランらしく余裕のある歌唱は技術的に綻びを全く見せず、尻上りに声にも艶が出てきて、
また、この役を舞台で歌うのはその週が初めてとは思わせないほど、役になりきり、表情
のみならず演技も体当たりで、PJの代役などとは言わせないほどの威力を発揮していった
のである。
「PJが出ないんじゃ、行く気がしないわ」などと罰当たりなことを言っていたわたしでも、
ザッゾの実力を目の当たりにして、「ごめんなさい」と心から詫びを入れる気持ちになった。
それどころか、この公演の危機を救った救世主、いや思わぬ付加価値を付けてくれた、という
感謝の思いを強くした。

近年とみに若手カウンターテナーが活躍しているなか、声の賞味期限が短いというのが通説
になっている世界で、1970年生まれのザッゾがいまだ衰えも見せずに聴衆の息を呑ませると
いうのは実に有難いことだ。ブームに巻き込まれなかったせいで、売れっ子として仕事に
追われて喉を痛めるという落とし穴に陥らずにに済んだということもあろう。何はともあれ、
オペラ舞台にぴったりの声量と演技力を持ち、そして体や顔の造作が大きくて歌舞伎役者の
ように舞台映えするザッゾを見直し、これから応援していこうと心に決めたのだった。

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# by didoregina | 2016-01-21 20:56 | カウンターテナー | Comments(4)

MusicAeternaのコンサート@ロッテルダム

2016年最初のコンサートは、自分が出演の所属合唱団恒例ニューイヤーコンサートだった。
聴衆として行った最初のコンサートは、わが合唱団が練習場として用いニューイヤーコンサート
も行なったセレブルダースカペルでのクリス(すなわちクリスティアン・ベザイデンホウト!)の
フォルテピアノによるベートーベン・プログラムではなく、同日わざわざロッテルダムまで出かけ
たテオドール・クレンツィス指揮ムジカ・エテルナ(ソリストはパトリシア・コパチンスカヤ)である。
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2016年1月13日@De Doelen

Biber - Battalia a 10 (‘Sonata di marche’)
Mozart - Symfonie nr.25
Mozart - Vioolconcert nr.5
Beethoven - Symfonie nr.5

MusicAeterna, Perm o.l.v. Teodor Currentzis - dirigent
m.m.v. Patricia Kopatchinskaja viool
Anthony Romaniuk clavecimbel

このコンサートは「バロック、その前後」というシリーズ・アボの一環であり、コンサート前の
レクチャーは、コンバッティメント(コンバッティメント・アムステルダム改め)のメンバー5人に
よる生演奏とチェンバロ奏者ピーター・ディルクセンによる解説という、内容も盛り沢山で素晴
らしい「前座」付きなのだった。すなわち、バロック最盛期からギャラントそして古典派への
流れを、バッハとその息子達および同時代の作曲家達(ビーバー、ゴルトベルク、C.Ph.E.
バッハ、テレマン、ブレシャネッロ、W.Fr.バッハ)の作品を生演奏で聴かせ対比しつつ論じ
るというもので、大変豪華かつ実に有意義な時間を堪能した。

さて、本日のメインイヴェントであるムジカ・エテルナのコンサートに関して、一つ重大な問題が
実は存在していて、私を悩ませたのであるが、その問題とは、一体、終演時間は何時になる
のだということである。コンサートホールからは「終演後、指揮者とソリストのサイン会があり
ます」というとても重要なお知らせが届いたが、終演時間は謎のままであった。
なにしろ、上記のプログラムは見ての通り「バロック、古典派、ロマン派」と盛り沢山であり、
クレンツィス指揮の演奏を一度でも聴いたことがある人ならわかっていただけると思うが、伸縮
自在・奇奇怪怪の演奏になることは必至なので、終演時間がまるきり読めないのだ。しかるに、
ロッテルダムからマーストリヒト方面への最終電車は22時48分発である。いざとなったら、
ベートーベンの『運命』はパスしようという気持ちで臨んだのだった。

まず、ムジカ・エテルナというロシアの古楽団体の生演奏を聴くのは今回が初めてである。
昨夏のルール・トリエンナーレでの『ラインの黄金』および11月のドルトムントでのダ・ポンテ
三部作の実演を聴き逃したのは痛恨の極みである。いずれもギリシャ旅行および日本里帰りと
重なったため。
モーツァルトでの編成では10、8、6くらいに見えたから、古楽オケとしてはかなり大きい部類に
入る。(舞台に近い席だったのと、チェロ、コントラバス奏者以外は全員立っての演奏だったため、
正確な人数がよくわからなかった)
当日変更になった演奏の順番は、ビーバー、モーツァルト、ベートーベンという時代を追っての
順当なものだった。しかるに、室内楽的小編成のビーバーの『バッタリア』では、クレンツィスの
指揮なしでコンマスがオケメンを纏めて楽しく自由闊達な演奏を繰り広げ、その晩のコンサートの
序章とした。
しかし、途中でなぜかソプラノのような声が舞台下手控えの間から聴こえ、わたしは訝しんだの
だが、そこからジブシー・ダンサーのような小グループが踊りながら舞台後方に出てきて、手拍子・
足拍子で賑やかに上手に通り抜けて行くという、ちょっとラルペッジャータのコンサートを思わせる
ような次第になった。
その後、モーツァルトの交響曲とヴァイオリン協奏曲になって、そのジプシー軍団の謎が解けた。
指揮者とソリストを含む、小編成のビーバーには参加していなかったミュージシャンたちが歌い
踊っていたのだった。

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クレンツィス(略してクレさん)の指揮の実演は、5,6年前にケルンで見ている。これは、
「見る」という表現をどうしても使いたくなるほど視覚的サプライズに満ちたものであった。
ピチピチのピタパンにアンクルブーツで踊り跳ね、耳の下で切り揃えたワンレンの髪を揺さぶり
ながらの大熱演の指揮であったのだ。(彼の髪形はそれ以後様々に変化していて、衣装も
ゴシックだったりするが)今回多分ロッテルダム初登場だろうから、そのケルンの時とほぼ同じ
なりとアクションの彼を初めて見る聴衆は、最初唖然、その後は隣の人と顔を見合わせるという
反応を一様に示した。
なにしろ、指揮台は置いてなく、直径二メートルの半円の空間が指揮者のために空けてあり、
そこで舞台として(そこだけでなく、後方のホルンに指示を出すときには、ホルン奏者に近寄って
行った)ワルツのごとく踊ったりフェンシングのトゥシェのごとく突っ込んだり行進のごとく足音高く
拍子を取ったり、自由自在のダンスに近い動きの指揮姿なのである。(足音で拍子を取るために、
靴は編み上げのアンクル・ブーツで、靴紐は赤。)
私の座席はケルンでもロッテルダムでも3列目中央で指揮者の至近かつ真後ろ。今回、私の前
の列には楽器を習っていると思しい中高生が5人座っていたのだが、目を丸くしていた。
そして、クレンツィスは聴衆の目を剥かせるのみならず、耳も体も驚かす演奏を展開するのだった。

音の強弱の幅が尋常ではないほど広い。弱音に強いピリオド楽器の特性をよくよく生かして、
聴衆の耳をそばだたせるようなデリケートなピアニッシモで高速演奏を繰り広げるかと思えば、
大編成の長所を生かして一気呵成に爆音へと昇り詰める。そしてリズムと言えば、もう楽譜には
小節の区切りがないかのよう。テンポの伸び縮みの仕方が、はたしてこれで許されるのかという
程なのはCD等で聴いて先刻承知であるが、それでも実演に接すると、これがモーツァルトの
Vコン5番?これがベートーベンの『運命』?と疑問符が頭を横切るのはいたし方あるまい。

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クレさんの手足の一部と化しているかのようなムジカ・エテルナの楽員たちが繰り広げの自由
闊達な演奏はまあ合点が行く。テンポやリズムがハチャメチャなのによくまあ破たんなく器楽
アンサンブルがまとまっているものだと感心するほどだが、クレさんの的確な指示に従えばいい
のだろう。
しかるに、ソリストというのは別物だから、クレサンと音楽的傾向・趣味を同じくしていないと辛
かろう。ケルメス姐、マレーナ様、プロハスカちゃんなど、いかにもいかにも癖の強いエキセン
トリックな歌手となら馬が合うのはわかる。
今回のソリスト、コパチンスカヤ嬢を聴くのは初めてであったが、彼女こそクレさんの追及する
方向と音楽的にも同じくする貴重なヴァイオリニストであることがわかった。
黒の半袖Tシャツに赤のグラデーションのフワフワのオーガンジーのスカートを押さえるため木の
枝を格子に編んだような硬い枠のようなものを上から着けている。そして裸足。
彼女とオケ、チェンバロ奏者および指揮者との遣り取りはまるでモダンジャズの奏者のような
あ・うんの呼吸のような間が感じられ、特にカデンツァはジャズのインプロビゼーションそのもの。
観客への媚びは全く見せず、いっそすがすがしいほどふてぶてしさすら感じさせる演奏はあっぱれ、
堂に入ったもので、自分の求める音楽世界を作り出しているのに感心した。
そういう自由な音が際限なく入るし、テンポは凹凸のある鏡に映ってデフォルメされたイメージ
さながらグロテスクなほど伸び縮みするし、船酔いしそうなルバートになったかと思うと、ジェット
コースターのように急下降したり、まあ忙しいことこの上ない。眠気に襲われることは絶対にないし、
思索にふけることも許されない。聴く者は退屈になったり自分だけの世界に閉じこもることも拒否
されるのだ。

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休憩後、10時ジャストに『運命』の演奏が始まった。指揮者は舞台後方下手からさっと現れ
るや、風のように素早い歩きを止めることなくそのまま演奏に突入。急・緩・急・急だから、
速い演奏なら33分くらい、でもクレさんの緩はどれほどゆっくりになるかわからないから、もしか
して40分近い演奏になるやもしれぬ。時間が読めないのが心配であったが、ホールから駅ホーム
まで歩いて8分見ておけばいいからギリギリ終電には間に合うだろう、と肝を据えた。
出だしのテンポが疾風の如くだったので、途中でこっそり時計を見たらアンダンテ終了も10時
15分。そのままイケイケ~と祈るのも不要なほど、緊張と高速は途切れず、ベトベンらしい
ねちっこくしつこい最後のテーマの繰り返しもするすると通り抜け、大団円が終了し、拍手とスタ
オベが始まった時間は、30分を切っていた。
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# by didoregina | 2016-01-16 02:37 | コンサート | Comments(0)

Sarah Morris のAstros hawk展@M-Museum Leuven

車を買い換えた。愛車MINIも新年を迎えると12年目に突入する。10年過ぎたあたりから色々
故障が多くなって修理費用がかさむのと、14年間乗り尽した主人の車も昨年末とうとうお釈迦に
なったので、二人の車をこの際一台にしようというわけで MINI Cooper Countrymanに。
キーを受け取って早速、ちょっとだけ遠出というか足慣らしのためルーヴァンまでドライブ。
月曜も開館の美術館はアムステルダム以外にはあまりないのだが、比較的近場のルーヴァンの
ミュージアムMが開いていて、サラ・モリスの展覧会が開かれていることを知り、出かけてみた。

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Sarah Morris Astros hawk (18.10.15 - 20.03.16)

ルーヴァンのMは、マーストリヒトのボネファンテン美術館と同じような地方都市の美術館で、
常設展示には中世のキリスト教関連作品が多いことや、コンテンポラリー・アートを中心にした
企画展が気を吐いている点に共通点がある。数年に一回、とても力が入って(金がかかって)
面白い展覧会が開催されるという点でも似ている。(地方の美術館ではその回数が限度。)
前回、Mに行ったのは、かれこれ数年前のソル・ルウィット展である。アーティストのコンセプト
に則って、白く塗った壁に直接描かれたウォール・ペインティングの数々はこの美術館の空間を
十分に活用した、非常に素晴らしいものだった。

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Rockhopper [Origami]

今回のサラ・モリス展に展示されている作品も、幾何学的に整然と緻密に描かれた線と色の
きっちりとした塗り方など、ソル・ルウィットの作品と共通するものがある。
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ゆったりと広い部屋の壁、基本的に一つの面に一作品の展示。

つるりとした質感の平面に、折り紙の折線をモティーフにしたり、生物や自然現象を幾何学模様
に置き換えた作品は、色遣いがポストモダン的に優しく、大きさはすっぱりと大きく小気味よい。
丁度、小学校低学年または幼稚園児と思えるグループが引率されて訪問していたが、子供たち
にもアピールしやすいものだろうと思える。
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絵画作品以外にも、モリスの監督した映画作品が4室で上映されている。そのうちのRioという
映画の美しさには目が惹きつけられ感嘆し、なかなか腰が上げられなかった。
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロの、町や海岸やカフェや工場や地下鉄の中の風景とそこに生活
する人々の様子を、次々とあまり脈絡のないスライドショーのように繋げたドキュメンタリー映画
なのだが、一つ一つのコマ、カット、色、人物の顔などが、ため息がでるほど魅力的なのだ。
町を主人公としたどのショットもパーフェクトな美しさで、スティールにしたら素敵なポスターに
なるだろう。
このドキュメンタリー映画を見ると、彼女の素敵な感性、有り余る才能を表現するメディアとして
映像が最もフィットしたものであることは明らかだ。

しかし、もっと大きな驚きは、展覧会場の最上階にあるのだった。
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Maqta [Abu Dhabi]

ルーヴァンの町並みを見下ろし、遠くに教会の塔や大学図書館などの歴史的建造物が壁に
開いた窓から一望できる3階のこの部屋では、ソル・ルウィット展でも同様だったが、それを
借景にした作品が展覧会のためだけに制作されている。Mの空間を最良・最適に使った作品で、
その空間に身を置くと贅沢さに目が眩むような体験ができる。

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財力にあかして金という富の誇示という目的があからさまで、醜悪この上ない現代建築を
集めたようなアブ・ダビのオフィスと無機的な石油精製工場群をイメージしたポップな壁画と、
中世からの美しい町並みが残るルーヴァンの屋根の景色とのコントラストは、しかし、対比と
して面白いだけでなく、すっかりモリス作品の中に取り込まれ違和感がない。小気味よいとは
このことである。
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# by didoregina | 2015-12-08 19:21 | 美術 | Comments(0)

CERAMIX @ Bonnefanten Museum

マーストリヒトのボネファンテン美術館では、5、6年に一度、企画も質も申し分なく興味深い
展覧会が開催される。(地方の美術館としては、財政的にその頻度での実現が限界らしい。)
2015年10月16日から2016年1月31日まで開催中のCERAMIXは、企画・展示方法・内容の
いずれをとっても、今までにないほどの意気込みが漲った素晴らしいものだ。(2年前に館長が
変わって以来、特に新感覚と息吹が感じられる。)

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「ロダンからシュッテまで」と副題の付けられた今回の展覧会は、セーブルの国立陶器博物館
およびパリのメゾン・ルージュとの共同企画というのがミソで、オペラならばさしずめ複数の
歌劇場の費用折半によるコープロのようなもので、専門分野に強い博物館の実力やコネ、その
道のエクスパートによるキュレーションの実力が束になったおかげで実現できた。
20世紀および21世紀の作家110人の作品計250点が世界中の美・博物館や個人コレクションから
集められ、来年はセーブルとパリでも巡回展示される。

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まずは、ロダン作の『バルザック』の頭が目に飛び込む。用いる素材がブロンズではなく陶器
であるから、物理的力強さに欠けるのではという恐れは、ここで吹っ飛ぶ。焼き物につきもの
壊れやすいという弱点から来る脆さの印象は皆無である。モデルと作り手双方のパワーが相乗
している結果と言える。

最初の方の展示は、ピカソ、レジェ、マティスといった、20世紀初期の作家(画家)による作品
で、アプローチに古臭さが感じられるのは、水差しや花瓶や入れ物という実用にも重きが傾い
ているためだろうか。あっと驚くような意匠も少ない。所謂、画家が絵を描く合間の手慰みに
土を捻ってみました、という域からあまり出ていない。

それが、次々と別の展示室に入るたび、コンセプト別に集められた現代作品が現れ、思わず
にやりと笑みが漏れたり、感嘆のため息をついたり、新発見にも暇がなく、楽しくなってくる。
創作物が自由に息をついているような、伸びやかさが出てくるからだ。

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Chiaro di luna (Moonlight) 1932-32, Arturo Martini (1889 - 1947)

この『月光』というかなり大きな作品(等身大に近い)の、バルコニーから身を乗り出して月の
光を浴びている恍惚の乙女たちを観ていると、ドビュッシーの『月の光』が聞こえてくるよう。

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今回の展覧会での目玉の一つは、ジェシカ・ハリソンによるパロディ心一杯の女性像たちだ。
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展覧会の告知やポスターにも使われているPainted Ladyやその他のリャードロ風フィギュリン
の実際に見るとびっくりするほど小さな磁器人物は、よく見るとデコルテ部分に船乗りが好む
刺青を施していたり、切り口も生々しい断頭の頭を自分で持っていたり、すまし顔でポーズを
取りながら一筋縄ではいかない女性像たちなのだ。

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Predictive Dream XLIII (2013), Katsuyo Aoki (1972 -)

女性ならではの繊細な指先と驚異的なディテール感覚から作り出されたのだろうなと、思わず
勘違いしてしまいそうなほど、女性作家の緻密な作品に目が釘付けになった。
鬼とも竜の頭とも見えるこの作品は、均衡のとれたシンメトリーと波立つカールの細かさとで
なる美の結晶だ。

また別の気に入った作品も女性作家によるもので、セルビア出身の彼女は日本で焼き物の勉強
をしたという。こちらは額に入れた絵画のような一見平面的な作品だが、ひび割れのような
細部の線を構成するのが手で綯ったひも状の粘土から作り出されていることが近づいて見ると
わかり、驚嘆する。
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Analysis and inplementation of the global game plan (2012), Ljubica Jocic-Knezevic (1973 - )


そういった細密な作品と対応するように、展示室の床や壁を大胆に使ったインスタレーション
作品もある。
壊れた破片のような形を繰り返し作り、それが全体を構成してさわやかな風が吹き渡るような
印象になっている。

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壁に掛けられているのは、It's the Wind (1985), Piet Stockmans (1940 - )


陶磁器と言うと実用の美、というものを想像しがちである私の狭い知識と古い感覚に
ガツンと鉄槌が下されたような、小気味よい快感を得る展覧会である。
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# by didoregina | 2015-10-30 18:30 | 美術 | Comments(2)

ゴッホ美術館のムンクとファン・ゴッホ展 Munch: Van Gogh

アムステルダムのファン・ゴッホ美術館で9月25日から来年の1月17日まで開催中の展覧会
Munch:Van Goghは、期待を大幅に上回る素晴らしいものだ。
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何が凄いかというと、両者による同じテーマおよびモチーフでしかも年代的にかなり近く
美術史的価値もほぼ同等の作品を並べて見せるという理想的展示方法を実現できたこと。
頭の中・想像の世界で美術愛好家がヴァーチャルに楽しんでいる方法だが、実際の美術展を
その方式で行うのは大変なことだ。世界中から観光客が訪れ、オランダ観光のメッカである
ファン・ゴッホ美術館でしか企画・実現は不可能であろうと思われる、質の高い作品が目白
押しで充実した内容だ。
美術愛好家の夢がここでひとつ叶えられた。

ファン・ゴッホよりムンクは10歳年下だが、早熟かつ早くから画家として認められていた
ムンクなので、ゴッホとほぼ同じ時期にパリに滞在していたり、19世紀末のフランス人画家
や印象派の影響を受けていたりして、作品に共通点は驚くほど多い。
そういう観点で集めたものばかりなのだから当然ではあるが、それでも実際に並べられ展示
されているのを見ると、思わず感嘆のため息がもれる。
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The Yellow House, Vincent van Gogh, 1888 (Van Gogh Museum)
Red Virginia Creeper, Edvard Munch, 1898 - 1900 (Munch Museum, Oslo)

ゴッホ美術館は普段でも写真撮影には厳しいが、特別展だから写真撮影厳禁なので、図版は
購入したカタログから。ショップで販売している特別展カタログは、英語版とフランス語版
二種から選べる。オランダ語版がないことから、世界各国からの観光客をいかにターゲット
としているかがうかがえる。

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Starry Night over the Rhone, Vincet van Gogh, 1888 (Musee d'Orsay, Paris)
Starry Night, Edvard Munch, 1922 - 24 (Munch Museum, Oslo)

クレラー・ミュラー美術館を始めオランダ国内はもちろん、パリのオルレー、オスロのムンク
美術館、ベルゲンの国立美術館などから厳選された作品が並び、質のみならず量的にも充実。
ムンクと言えば、誰もが思い浮かべる『叫び』や『マドンナ』『吸血鬼』『嫉妬』『接吻』
『病気の子』なども、今回の展示には欠けていないのである。

ゴッホの絵は、何度も見ていてお馴染なので、特にムンクの絵をじっくりと鑑賞した。
才気走った若きムンクの自画像。(もう少し年を取ってからの自画像は、ファン・ゴッホのと
並べられている。)
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19才の自画像 Edvard Munch, 1882 (Munch Museum, Oslo)
23才の自画像 Edvard Munch, 1886 (National Museum of Art, Archtecture and Design, Oslo)

また、パリで当時の先端を行くフランス人画家、ゴーギャン、スーラ、ピサロ、モネ、マネ、
カイユボット、ロートレックなどの作品と、彼らの作品及び画家との交流から影響を受けた
だろうと思われるゴッホとムンクの作品が、似たテーマを選んで並べられているのも圧巻だ。

ムンクの風景の切り取り方、室内の構図や窓の外の風景などに見られる、文字通り斜に構えた
感じが、私にはとても印象に残った。
正面からでなく部屋の角からの画家の視線で、対角線上の隅に立つ人物を鑑賞者も見ることに
なり、その先にあるカーテンの隙間から覗く窓の外の風景に目が吸い込まれる。都会のメラン
コリーの味わいがほのかに見え隠れし、効果的である。

c0188818_19464180.jpg

Night in Saint-Cloud, Edvard Munch, 1890 (National Museum of Art, Architecture
and Design, Oslo)

とにかく、量的・質的に、今年年頭にアムステルダム国立美術館で開催された『後期レン
ブラント展』に匹敵するほどの内容だと思う。
ようやく、新しいエントランス・ホールが、3つの美術館とコンセルトヘボウが面するミュー
ジアム広場側に完成し、今までのように歩道に長い列が並ぶようなカオスは緩和されたが、
ゴッホ美術館は普段でもアムス有数のアトラクションであるだけに列は長い。事前に時間枠の
Eチケットをオンラインでゲットすることを勧める。追加料金なしで日時指定でき、それに
通常の入場前売り券もしくはミュージアム・カードを持っていれば、待ち時間なしで直接
入れる。

c0188818_1956936.jpg


新たに増築されたエントランス・ホールは広々。特別展は別棟。ショップも充実。
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# by didoregina | 2015-10-21 19:58 | 美術 | Comments(6)


コンサート、オペラ、映画、着物、ヴァカンスなど非日常の悦しみをつづります。


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プロフィール

名前:レイネ
別名: didoregina
性別:女性
モットー:Carpe diem

オランダ在住ですが、国境を越えてベルギー、ドイツのオペラやコンサートにも。
ハレのおでかけには着物、を実践しています。
音楽、美術、映画を源泉に、美の感動を言葉にしていきます。


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