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『さまよえるオランダ人』ライブ音楽演奏と映像映写

ヤニク・ネゼ=セガン指揮ロッテルダム・フィルハーモニック・オーケストラによるコンサート
形式のワーグナー『さまよえるオランダ人』を鑑賞した。

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Wagner - Der fliegende Holländer

Rotterdams Philharmonisch Orkest
o.l.v. Yannick Nézet-Séguin
Franz-Josef Selig Daland
Emma Vetter Senta
Frank van Aken Erik
Agnes Zwierko Mary
Torsten Hofmann Steuermann
Evgeny Nikitin Holländer
Koor van De Nederlandse Opera
Shaun Gladwell video art

2013年9月15日@De Doelen




毎年9月にロッテルダムで開催される「ゲルギエフ・ファスティヴァル」との共同制作であること、
ヤニクがヨーロッパで初めてワーグナーのオペラ全曲版を指揮すること(出身地であるモントリ
オールでは、8月11日に『ローエングリン』でワグナー・オペラ・デビューを果たした)、RPhOは
ロッテルダムに引き続き、パリとドルトムントでも『オランダ人』演奏するなどの理由もあり、
本拠地ロッテルダムのフランチャイズ・ホールのデ・ドゥルンでは、今シーズンかなり力を入れて
いた演目のようである。
アムステルダムからネーデルランド・オペラ合唱団を呼んで(現在、DNOでは『ジークフリート』
上演中なので合唱団は暇らしい)、ソリストには、オランダ人にエフゲニー・ニキーチン、エリックに
フランク・ファン・アーケン(自国オランダでワグナー・オペラを歌うのは初めて)と歌手キャストにも
力が入っている。
そして、コンサート形式であるが、舞台後方上部のコーラス席前に映画館並のサイズのスクリーン
が設置され、そこにヴィデオ・アートが映写されたのだった。

ヴィデオ・アートが映写されることを知った当初は、なんだか得したような気分というか、訳もなく
期待が高まった。

演奏の始まる前に、当のヴィデオ・アーティスト、ショーン・グラッドウェルが舞台に上がった。
そして、なんとも不可思議な「お詫び」とも「弁解」とも取れるような説明を始めた。

自分はサーファーであり、かつ尊敬するワーグナーの海を舞台にしたこのオペラは大好きな
作品なので、今回、ヴィデオ・アート作成の依頼を受けここに上映の機会を与えられたことは、
うれしく光栄であると同時に畏敬の念も抱いた。
上映されるヴィデオは、サーファーの目から見た海の心象風景で抽象的・象徴的なイメージを
重視した内容であり、劇の進行とは必ずしも一致しないので、スクリーンの下部にはオランダ語
字幕が映ると思うが、ヴィデオより実際の舞台上の歌手の方に注目してもらいたい。そちらで
歌われる内容と演奏とが、オペラのメインであるので。

というようなお言葉であった。
どういう意図を持って、ヴィデオ・アーティスト自身が、プレミエ上演前にこういう発言をするのか。
聴衆は狐につままれたような気分になったと思う。
そして、実際に演奏が始まると、もやもやした割り切れないような気分が落胆に変化した。

わたしの座ったバルコン正面の丁度目の高さ、舞台背景一面がスクリーンに覆われている。
字幕の位置は、オペラ舞台のようにかなり上にあるのではなく、丁度映画の字幕のようにスク
リーンの下のほうである。だから、字幕を見ようとすると、スクリーン上の映像はいやでも目に
入る。

実際の生演奏と映像とは、ギャップがありすぎた。

このヴィデオ・アートは、映画のようでもありアンビエント映像のようでもあり、中途半場なイメージ
に留まってはいたが、一応オペラ内容とパラレルになった配役とストーリーがあるようだった。
しかし、サーファーの目から見た海がほとんどの映像は、非常に抽象的で、ゆったりしすぎた展開が
まるでニュー・エイジ的というか妙な催眠効果があるのだった。
波の揺れや、海中に立ったり砂浜で遊ぶ人物たちの動きはゆったりと緩慢で、演奏される音楽とは
全くシンクロしていない。
それどころか、音楽は荒々しい海のイメージを掻き立てるのに映像はのんびりとして、海をぼう~と
眺めていたり、砂浜で追っかけっこや竹馬に乗ったり、髭をそったり、火を焚いたりで、ほとんど
意味不明である。
少数ながら、その心象風景の意味するところや象徴的メッセージをくみ取れた人もいたようだが。
壮大な19世紀的ロマン溢れるワーグナーのオペラに、かなり現代的かつスタイリッシュなのだが
妙にしんとして音のない世界のようなモノクロの映像イメージとは全くそぐわなかった。

ヴィデオ・アートというのは、現代アートの様々なジャンルの中でも、評価するのが難しい部類に
属すると思う。
ヴィデオ・アート黎明期であった80年代初頭に、ベルリンでヴィデオ・アート展覧会みたいなのを
体験したが、その件をオランダの大学の美術史の先生に話すと、頭を振って「ベルリンまで行って
そんなものを見たのか」と呆れられたことを思い出す。当時はまだまだマイナーなアートであり、
伝統的美術史の世界では正当な評価は得られていなかった。
日本での方が、ナム・ジュン・パイクとかのヴィデオ・アーティストがすでに70年代終わり頃には
名前も売れていたし、現代アートとしてある程度のファン層があったのではなかろうか。
現在ではどうかというと、う~ん、どうなんだろう、としか言えないようなニッチ存在なのではないか。
だから、その他の芸術部門とのコラボでなんとか飯を食ってくしかないのだろうか、とも勘ぐる。

今までにも、オーケストラのコンサートのバックにヴィデオが映写されたのを見たことは何回か
ある。それは、ベルリオーズの『幻想交響曲』やラフマニノフの『死の島』やムソルグスキーの
『展覧会の絵』、ラヴェルの『子供と魔法』などで、まあ、ヴィデオとのコラボにもさほど違和感を
覚えない類の音楽であった。
また、それらの場合、音楽の喚起するイメージを増幅する手段として映像が使うという目的が
はっきりしていて、ヴィデオ・アートとしての完成度は低いが、その分独自性・メッセージ性が少なく
あるいはかなり控えめであったので、音楽の邪魔にはならなかった。

昨今、オペラ演出の一部に映像を用いるのは、さほど珍しいことではない。
もしくは、現代新作オペラの場合、ミシェル・ファン・デル・アーの一連の作品のようにヴィデオ・
アートと一体化している例もある。先月鑑賞した『リリス』など好例で、しかもヴィデオ上の演技と
生演奏の音楽が上手く融合していて、あっと驚いた。

これらの場合、ヴィデオは、演出もしくは作品の一部であるから、生で演奏される音楽と乖離して
いないし、邪魔もしない。上手くシンクロしているのはもちろんのことである。

すでに作ってある映像と生演奏とをシンクロさせる場合、テクニカル上の問題が大きいだろう。
録音した音楽なら、細かく速度を計ったりして映像のタイミングを合わせることはできるが、生の
場合、しかもワーグナーのオペラ一作全部のタイミングが、映像にぴったり合うように演奏できる
わけがない。もし映像の方にオケの演奏を合わせたりしたら、それでは無声映画の伴奏みたいに
なってしまって本末転倒である。
かように、オーケストラ音楽、しかも具体的ストーリー進行のあるオペラと、映像映写とは、
かなり相性の悪い相手同士とは言える。

それでも、あえて、ロッテルダム・フィルは、ヴィデオ・アーティストに作品を依頼した。
ある意味、快挙というか文化的英断というか、無謀というべきか。
鑑賞直後はブーとしか思えなかったのだが、ヴィデオ・アートとオペラ演奏とのコラボというものに
関して考えさせるところが多々あることに気づいた。じわじわと効いてきたというのが、意外である。
だからこそ、今回挑戦したヴィデオ・アーティストには、事前にお断りする逃げの姿勢など取らずに、
堂々たる態度でコンセプトを説明してもらいたかった。よっぽど、自信がなかったのか。自らの作品を
卑下してるような態度が男らしくなく、それが非常に残念である。
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by didoregina | 2013-09-19 10:40 | オペラ コンサート形式 | Comments(10)

Lilith シーズン開幕前夜祭

ヘーレンでは、毎年シーズン開催前一週間にわたって、Cultura Novaと称したイヴェントが
劇場や広場や野外で行われる。ミニ・フェスティヴァルの趣で、コンサート、芝居、音楽劇、ダンス
など試験的かつ意欲的な出し物が多い。
今年見に行ったのは、Lilithという現代ものオペラというか(ほぼ)一人舞台の音楽劇である。

c0188818_16331222.jpgLilith
2013年8月31日@ Theater Heerlen

Muziektheater Transparant

Claron MacFadden (live)

Jeroen Willems (film)

Dimitar Bodurov (piano)

この作品とプロダクションは、昨年、アムステルダムのホランド・フェスティヴァルで初演された。













興味を惹かれたのは、まず、リリスという元祖悪女をテーマにした現代音楽劇であるということと、
企画および主演がソプラノのクラロン・マクファデンであるという点である。

リリスというのは、アダムと同時に神が土塊から創った女性で、アダムの最初の伴侶である。
しかし、男性であるアダムとの同権と文字通りの女性上位を主張するも叶わず、平等と自由を
求めて堕天使ルシファーとともに出奔。諸悪の根源を生み出した悪女とされる。
残されたアダムの肋骨から、神はイヴ(エヴァ)を作り出して伴侶にさせた。

そういう独立志向の強いイメージかつ悪女の原点ともいえるリリスであるから、つれなき美女を好んだ
ロセッティの絵に描かれたり、フェミニズムの旗頭に祭り上げられている。

そして、この作品を企画したのが、数年前のホランド・フェスティヴァルで世界初演されたザウダム
のオペラ『楽園追放のアダム』でイヴを歌い演じたクラロン・マクファデンである、というのが面白い。
そのオペラでのイヴは、自我に目覚め、意識の進んだ強い女性、というか悪女に近いイメージの
女性だった。
つまり、マクファデンは、リリスのイメージもある程度投影されていたザウダムのイヴにインスピレー
ションを得て、しかしそのイヴには飽き足らず、リリスを主人公としてまた一歩先に進んだ音楽劇を
プロデュースしたくなったのではないか、とわたしは想像するのである。

もう一つ、この音楽劇へのわたしの関心が高まったのは、ヴィデオを用いてライブとフィルムが同時
進行するという方式のこの音楽劇のスクリーン上で演じる俳優イェルン・ウィレムスが昨年末に急逝
したという事実と、亡くなってから知ることになったのだが、彼は世界でも一流の舞台俳優だったと
いうことによる。
一体どうやって、生の歌手とスクリーン上の俳優が同じ舞台で音楽劇を作り出すのか、という興味で
ワクワクして臨んだのはもちろんのことである。

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ヘーレン市民会館での『リリス』の舞台および客席は、舞台の奥に造られていて、観客も同じ平面
上(舞台)に座る。だから、歌手との物理的距離は非常に近い。
舞台設定はホテルのバー「パラディ」ということになっていて、別れたアダムとイヴがそこで再会して、
それぞれの視点から別れた理由やその後の生活などを怨念を込めて語る、という内容である。

マクファデンの歌は、ピアノ伴奏とコンピューターからアウトプットされる音楽、そしてスクリーンから
語りかけたり歌ったりするウィレムスに合わせる形になる。
それらは、独白であったり、相手を責めたりする丁々発止のスリリングな掛け合いなのだが、
絶妙なタイミングでぴったりと合い、ずれも齟齬もなく進むのであった。

こういう風に、ヴィデオと生の器楽演奏および歌とコンピュータ出力の音楽との融合した形態の
音楽劇というと、近年、ミシェル・ファン・デル・アーによるオペラ作品とプロダクションを思わせる。
彼の作品『アフター・ライフ』と『サンクン・ガーデン』は、ともに数年前と今年のホランド・フェスティ
ヴァルで初演された音楽劇で、それらにクラレン・マクファデンが出演しているのも偶然ではない
だろう。

今回のプロダクションの演出で、おお、なるほどそういう方法があったか、と思わず膝を打ったのは、
生身のリリスとスクリーン上のアダムがベッド・インする場面である。
ベッドの上に横たわるアダムを上から映しているが、スクリーンは垂直なので、アダムの横にリリスが
立つと、二人が同じベッドに横たわっているように見えるのだ。だから、二人で同じベッドに横たわる
場面は観客から見るとインタラクティブ性に全く問題ない。
しかし、問題は、リリスとアダムが上下に重なる場合である。アダムにのしかかられて、嫌がるリリス
というシーンだ。それがシーツをうまく使うことによって、見事に解決されているのだった。
リリスがシーツを自分の上に広げて垂直に垂らして、そこにアダムを映写すると、生身の人間と
スクリーン上の人物とのベッドシーンになるのだ。言われてみれば、コロンブスの卵的ではあるが、
オリジナリティがありかつ成功している。




クラロンさんの声は、基本的に正統的オペラのリリコなのだが、ポップス風にもっと軽く歌ったり、
ジャジーかつドスを効かせたり、千変万化。現代音楽だから、音が取りにくそうなメロディーが
多いが、ほぼ独り舞台でも実力を発揮していた。
観客を見据えるようにスクリーン上から語りかけるウィレムスの求心力が凄い。眼力も台詞の
言い回しもストレートに迫り、生に引けを取らないインパクトがあるが、オペラ歌手と伍して歌う
のに感服した。
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by didoregina | 2013-09-07 11:03 | オペラ実演 | Comments(2)

ザルツブルクの『ドン・カルロ』の衣装デザイン

ザルツブルク音楽祭の『ドン・カルロ』をArteによるTV中継で観た。
休憩も含めて5時間以上の超長尺ヴァージョンだったので、肝心なところでウツラウツラ
してしまい、オペラをしっかり鑑賞したとは言えないので、視覚的に印象に残ったコス
チュームに関して書き留めたい。

舞台装置・デコールが非常に簡素で重厚さに欠け、デザイン的にもイマイチ練りとひねりが
足りないのは少々残念だったが、衣装デザインは素晴らしく練られて、歴史的スタイルを
換骨奪胎しながら、舞台映えもして機能的になっている点を評価したい。
衣装デザイン担当は、Annamaria Heinreich。

以下、ザルツブルク音楽祭サイトの写真と、デザイン・モデルにしたであろう肖像画とを
見比べてみよう。


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© Monika Rittershaus

まず、フォンテーヌブローの場での衣装には、かなりがっかりさせられた。
毛皮の付いた外套を羽織ったこの二人の写真だけ見たら、ドン・カルロとエリザベッタだとは
到底思えない。ロシアかどこか東欧風の色使いのドレスに毛皮である。しかも、ダサいと
しか言いようのない帽子。エリザベッタはフランス王の息女で、母親はメディチ家出身である。
当時最新のモードを着こなして当然のプリンセスなのに、田舎っぽすぎる。

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    エリザベート・ド・ヴァロワ(1560年) Antonis Mor画 Varez Fisa Collection

スペイン王に嫁いだフランス王女ともなれば、↑のような豪奢さを見せつけて当然。
もしかしたら、オペラの衣装デザイン担当のハインライヒ女史は、この絵からインスピレー
ションを得て、舞台用に簡素化したのかとも思われるのだが、色づかいが安っぽい。


また、ドン・カルロの舞台衣装として定番化しているのが、提灯ブルマーとびらびらフリルの
襟元だが、今回の衣装デザインでは、そのどちらも採用されなかった。衣装デザイナーの画期
的決断とも言えよう。

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      ドン・カルロス(1557~1559年頃) Sanchez Coello画 プラド美術館

この絵に描かれたドン・カルロスは、エリザベート・ド・ヴァロワとフェリペ2世が結婚した
頃で少年の趣が残る。 だから、提灯ブルマーも似合っている。
しかし、舞台上では動きにくく暑いという欠点があるため、今回の舞台衣装に提灯ブルマーは
採用されなかった。
そして同時に、フリルの襟元も不採用。これも、機能性重視のためだろうか。それとも、
スリムなズボンとブーツというスタイルに合わせてのデザイン上のマッチングのためか。

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© Monika Rittershaus

フリルなしで、普通のワイシャツみたいな打ち合わせのブラウスを下に着ているのが、やはり
デザイン的にイマイチ好みではなかったのだが、舞台が暑いのか、熱演・熱唱のため暑くなる
のか、それともファン・サーヴィスのためか、ブラウスの襟元を開けて胸元近くまで見せる
ことが結構多いカウフマンであった。

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   © Monika Rittershaus      現代的で動きやすそうな衣装

                         
また、彼のキュートなクルクル巻き毛の魅力を生かすためか、羽根飾りや宝石の付いた帽子も
なし。

ところが、ハンプソン演じるロドリーゴは肖像画のドン・カルロスそっくりな素敵な帽子を
被っていて、それがまたよく似合うのだった。

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  © Monika Rittershaus           ロドリーゴの帽子が素敵!


この写真のフェリポの衣装は、フェリペ2世の肖像画そっくりである。間違い探ししても
違いが見つけにくいほど、考証がしっかりしている。帽子や上着の質感、首から下げた
金羊毛騎士団のメダルに至るまで、下の絵から抜き出てきたかのよう。

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       フェリペ2世(1565年) Sofonisba Anguissola画 プラド美術館収蔵

この肖像画を描いたソフォニスバ・アングィッソラというイタリア人女流画家は、スペイン
宮廷ではエリザベート王妃の女官として仕えかつ王妃に絵を教えていた人だという。
彼女の描いたエリザベートの肖像画も美しい。

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    エリザベート・ド・ヴァロワ(1561~1565年ごろ) Sofonisba Anguissola画
            プラド美術館

この絵の黒いローブに縦に入っている刺繍模様が、オペラの舞台衣装デザインに取り入れら
れている。

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                               © Monika Rittershaus

黒地に白の刺繍模様が、ここではローブ全体のモチーフになっている。
アニア・ハルテロスは、すらりと長身で顔立ちも細面でノーブルで、全体的に王妃にふさわ
しい気品が漂うから、どんなドレスでも似合う。デザイナーにとって理想的というかデザイン
のし甲斐・着せ甲斐のある歌手だろう。

今回のドン・カルロ掟破りとしては、エボリ公女のアイ・パッチなし、というのもある。
アイ・パッチ、びらびらレースの襟、提灯ブルマーなどは、アイコン化していると同時にクリ
シェと化してもいるから、それらを排してオリジナリティを出しているのは好ましいが、
わたしの好みとしては、エボリのアイ・パッチは捨てがたい。

その代り、と言ってはなんだが、ヴェールが上手く使われていた。エボリとエリザベッタの
ヴェールのみならず、ムーア風テーマの音楽に乗って、中庭で女官たちがアラビア風ヴェー
ルを顔に巻くシーンは美しい。

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                              © Monika Rittershaus

スペインの宮廷では、黒のドレスが当時のモードだったから、皆、黒いドレス姿なのだ。
襟が詰まっていず胸元が開きすぎという感じだが、ドレスのウエストはV字カットの切り替え
があり、考証が生かされているデザイン。

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       エリザベート・ド・ヴァロワ(1605年) Juan Pantoja dela Cruz画
                プラド美術館

上の肖像画が描かれた時点では、エリザベート王妃は亡くなっているから、多分1565年にアングィッソラ
が描いた肖像画をもとにした絵であろうと推測されるもの。
ドレス自体は黒で比較的シンプルだが、宝石類を使った飾りがさすが王妃の貫禄である。
当時のスペイン王ともなれば世界一の資産家・長者であり、その王妃のお召し物であるのだから、
贅沢で高価かつゴージャスなのは当然だし、誇示して威光を見せつけている。

最期に、悲劇の王子ドン・カルロスの肖像画を掲げたい。
王妃エリザベートと義理の息子ドン・カルロスは、奇しくも同じ年の1568年に亡くなっている。
昨年末、プラドやエル・エスコリアルで見たドン・カルロスの肖像画には、金羊毛騎士団の
メダルをつけたものが見あたらず不憫に思ったのだが、神聖ローマ皇帝マキシミリアン2世の
命によってウィーンに届けられたドン・カルロスの肖像画には、ハプスブルクの家系らしく
金羊毛メダルが描かれている。

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スペイン王子ドン・カルロス(1564年頃) Alfonso Sanchez Coello画
                ウィーン美術史美術館
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by didoregina | 2013-08-21 12:12 | オペラ映像 | Comments(5)

ブリテンの『ヴェニスに死す』@DNO

c0188818_207825.jpgDeath in Venice
Benjamin Britten (1913 - 1976)
gezelschap
ENO Chorus and Technical / Production team
muzikale leiding Edward Gardner
regie Deborah Warner
decor Tom Pye
kostuums Chloe Obolensky
licht Jean Kalman
choreografie Kim Brandstrup
video Finn Ross
een productie van English National Opera 2007
coproductie met De Munt/La Monnaie Brussel
orkest Rotterdams Philharmonisch Orkest


Gustav von Aschenbach John Graham-Hall
The Traveller / The Elderly Fop / The Old Gondolier / The Hotel Manager / The Hotel Barber / The Leader of the Players / The Voice of Dionysus Andrew Shore
The Voice of Apollo Tim Mead
The Polish Mother Laura Caldow
Tadzio, her son Sam Zaldivar
Her two daughters Mia Angelina Mather Xhuliana Shehu
Their governess Joyce Henderson
Jaschiu - Tadzio's friend Marcio Teixeira

2013年7月7日@Muziektheater Amsterdam

DNOの2012・2013年シーズン最後の演目は、ブリテンの『ヴェニスに死す』だった。
通常ならば、グランドオペラやヴェルディやワグナーなどの大作でシーズンの幕を下ろすの
だが、この静謐なオペラを最後に持ってきた。
というより、DNOプロダクションとしては、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が
最後の演目でこの『ヴェニスに死す』は、オーケストラ以外は、出演者はもちろん、指揮・
演出を始めとするプロダクションのテクニカルチームも完全にENOからの引っ越し公演だった。

そういうわけで、アムステルダム歌劇場の舞台の雰囲気は、完全にイギリス色に染まっていた。

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DNOサイトの写真は、ENOとモネ共同プロ初演のまま(主役はイアン・ボストリッジ)!あまりに手抜きだ。


作曲家がイギリス人でリブレットも英語だから、歌手はイギリス人で揃えるのが間違いがなく
てよろしい。指揮者も演出家ももちろんイギリス人である。

舞台デコールはシンプルで、ラグーンの遠浅の浜辺とオーガンジーのように風をはらむ透明な
カーテン、大道具はゴンドラ、船、ホテルやテラスの椅子などだけでスッキリとした空間が
美しい。
バックは、なかなか日の暮れない残照の浜辺や、ぎらぎらと残酷な太陽を表現する照明、
遠くに霞むヴェニスのシルエットなど、全体に淡くて透明感のある憂いに満ちている。
衣装も正統的ベル・エポックで、20世紀初頭の高級な避暑地の雰囲気そのもの。誰もが思い
浮かべる当時のヴェニスとリド島のイメージで、違和感を感じさせない。
舞台造形上、立体的な物はほとんど設置していないのに関わらず、平面的になっていない。
すなわち、ごちゃごちゃした大道具なしで、シンプルな装置が視覚的に奥行きを感じさせ、
観客のイマジネーションに訴えかけ、美的感覚を呼び起す、この舞台は大いに気に入った。
説明過剰で子ども扱いされているような気分になるような舞台とは正反対である。

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ブリテン作曲のこの音楽を聴いたのは、今回実演鑑賞した時が初めてなのだが、器楽にも歌
にもおやっと思うほど、ドビュッシーの音楽を思わせる箇所がとても多いのに驚いた。
作曲されたのが1973年というのが信じられないほど古めかしいというか、20世紀前半風の
響きに満ち溢れているのだ。
無調の歌や、ピアノの分散和音の響きや、ヴィヴラフォンの奏でる東洋的なペンタトニックの
旋律がドビュッシー(特にピアノ曲集『映像』と『版画』)に後期ウィーン楽派の音を混ぜた
ような具合で、初めて聴くのに懐かしささえ覚えたほどである。
物語の時代設定が20世紀初めなのだから、それで間違いはない。懐古趣味とも言えなくも
ないが、そこにぺダンチックな抒情性が感じられ、安心して聞いていられる。

とはいえ、歌手は3人のみで、特に主役フォン・アッシェンバッハはほぼ出ずっぱりでずっと
独唱(しかも無調)するのだから、歌う方はさぞかし大変だろう。主役歌手は、最後にはほと
んど絶唱という感じである。
歌手が3人というのと、東洋的な旋律、シンプルな舞台造形から、能を鑑賞しているような
気分にもなった。
かといって、シテ、ワキ、などの役割構成がそっくりそのまま『ヴェニスに死す』の登場人物
に当てはまるわけではないが、テノールのフォン・アッシェンバッハがシテ、複数の登場人物
を担当するバリトン歌手がワキ、カウンターテナーのアポロがツレ、タージオが子方と言え
ないこともないだろう。

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         ようやく夏らしくなった北のヴェニス、アムステルダムの運河は船で溢れる。
         歌劇場フォワイエ・ベランダからの眺め。

ゴンドラが能の作り物の舟のように使われているのが印象に残ったのだが、このゴンドラは、
ギリシャ神話に出てくる三途の川の渡し守カロンの漕ぐ舟に思えた。つまり、ヴェニスの運河の
水は現世とあの世を分かつ境界であり、その象徴性からフォン・アッシェンバッハの運命は最初
から明白だ。(タイトルからして死は暗示どころではないが)
その死の世界へ、スランプに陥った作家フォン・アッシェンバッハは、自らの意志でインスピ
レーションを求めて旅立つ。しかし、そのために蒸気船に乗り込むのが、私には少々腑に落ち
なかった。
というのは、最初彼が住んでいたのはミュンヘンで、そこからアルプスを越えて彼方の光溢れる
ヴェニスに行く、ということになっているから、地理上、船に乗る必要性はない。
しかし、ヴェニスには船で訪れることは、芸術家にとって美学上絶対にはずせないお約束だっ
たのだろう。どうやら、わざわざプーラから蒸気船に乗り込んでヴェニスに向かったようである。
アドリア海上から望むヴェニスこそ海の都の本来の姿であり、その姿を見るためには船で行く
ほかはない。

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さて、このオペラを実演鑑賞したかったのは、ウォーナー女史演出ということも大きかったが、
実はカウンターテナーのティム・ミード(アポロ役)の生の声を聴きたかったからだ。
数年前のモネ劇場ではボストリッジ博士が主役だった(チケット取れず無念)が、今回のテノ
ール歌手にはさほど期待していなかった。
しかし、ジョン・グレアム=ホールの役柄への没入はすさまじく、ほとんど鬼気迫るという感
じで、もうフォン・アッシェンバッハになりきっている。声も年齢や体格も役にふさわしい。
バリトンのアンドリュー・ショアも異なる役柄の歌い分けが上手くて唸らされたし、出番の少
ないCTティム・ミードも期待を裏切らない歌唱だった。というか、生の声が聴けただけで満足だ。
ミードの声は、いわゆる教会系というか、いかにもイギリス人CTの伝統を感じさせ、最近の若手
CTに付けたくなる形容詞、筋肉質だとかレーザー光線のようにシャープというのには当てはま
らない。
育ちのいい好青年というったルックスがいいし演技もなかなかだから、またオペラ舞台で見て
みたい。

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ルックスといえば、この作品では美少年タージオ役も重要である。歌はないからダンサーが
務める。
躍動感あふれる振付で、いかにも太陽神に好かれそうな少年タージオの存在が強調されていた。
すなわち、美と若さと生命そして無垢の象徴である。心を病んで、年を取り、外見的には美しい
とは言えないフォン・アッシェンバッハとは正反対の存在であり、それだからこそ彼が魅かれ
るのだ。
タージオを始めとする少年たちは、いかにもイギリス風訓練の行きとどいて均整の取れた踊り
を披露してくれた。彼らが踊ると、さわやかな涼風が吹き抜ける。それが、フォン・アッシェ
ンバッハがタージオに抱くプラトニックな恋愛感情を象徴していて、舞台および作品のストー
リー全体との統一感が壊されず好ましかった。


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              ワンピースのベルト代わりに、帯締め二本を結んだ。
              オペラ・ピンクの丸組と天使の肌と呼ばれる薄い珊瑚色の
              平組で、和のテイストを入れてみた。

アムステルダムのDNOへは通常電車で日帰り遠征するので、着物で行ったことはない。
当日も、保線工事プラス事故で大回り迂回乗換3回となり、片道4時間かかった。
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by didoregina | 2013-07-11 15:43 | オペラ実演 | Comments(6)

『アグリッピーナ』@リセウのチケット・ゲット!

暑さきびしい折ですが、マレーナ・エルンマン・ファンクラブの皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

昨日、バルセロナのリセウ歌劇場の来シーズン・チケット発売が開始されました。
マレーナ様がネローネ役で、タイトルロールはサラ様、そしてポッペア役にはヒールとして
外せないダニエルちゃんという三つ巴のバトル、いえ、豪華出演陣かつマクヴィカー演出と
いう待ちに待った世紀のプロダクション『アグリッピーナ』のチケット(18日)を、無事入手でき
ました!
ファンの皆様のご首尾はいかがでした?

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         マーストリヒトの聖セルファース教会南入口扉前の床モザイク。
         植民地アグリッピナとは、すなわちケルンの別名です。


思えば、マレーナ様とサラ様目当てで鑑賞した演目にはダニエルちゃん出演ということが多々
あったものですが、この『アグリッピーナ』は、その総仕上げと言えるものでしょう。
というのは、マレーナ様とサラ様の共演は初めてのはずなのです。私の最も好きなメゾ二人が
親子の役で共演とは夢のようです。もう、その他の役は誰でも文句は言いますまい。今年最大の
イヴェントになることは間違いなしです。



マレーナ様の胸キュン・ネローネに、サラ様アグリッピーナ(脳内変換してください)!


『アグリッピーナ』を18日のチケットにしたのは、17日のエディタ・グルベローヴァのリサイタルと
組み合わせるためです。
その頃バルセロナにいらっしゃるファンの方、ぜひオフ会をいたしましょう。ブログ管理者だけに見える
鍵付きコメントでご連絡ください。
おすすめホテル、レストランその他のバルセロナ情報も交換いたしましょう。
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by didoregina | 2013-07-09 09:50 | マレーナ・エルンマン | Comments(0)

ハネケ演出の『コジ・ファン・トゥッテ』@マドリッド王立歌劇場

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                モネ劇場で稽古をつけるハネケ












W.A. Mozart: Cosi fan tutte
ORCHESTRA: Orchestra & Choir of the Teatro Real in Madrid
CONDUCTOR: Sylvain Cambreling
PERFORMERS:
Anett Fritsch, Fiordiligi;
Paola Gardina, Dorabella;
Juan Francisco Gatell, Ferrando;
Andreas Wolf, Guglielmo;
Kerstin Avemo, Despina;
William Shimell, Don Alfonso

Artistic Staff:
Michael Haneke, stage director;
Andrés Máspero, chorus master;
Christoph Kanter, set designer;
Urs Schonebaum, lighting


マドリッド王立歌劇場とブリュッセルのモネ劇場との2013年新作共同プロで、マドリッドでは
2月、ブリュッセルでは5,6月に上演された。
映画監督のミヒャエル・ハネケによる演出ということで、個人的にはモネで今シーズン1番
興味のある演目だった。しかし、前年のハネケ作品映画『アムール』のカンヌ映画祭パルム
ドール受賞やアカデミー賞効果のためか、モネ劇場のチケット争奪は熱戦となり、初っ端から
脱落したのだった。
モネならば、実演を見逃してもオンライン・ストリーミングがあるから、と諦めた。
ところが、マドリッド公演の方が先に、ArteLiveWebで見られるようになったためか、モネ
からのストリーミングはどうやらなくなってしまった。
だから、以下のレビューはマドリッドの映像を鑑賞した感想である。(写真は全てモネ)

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         フィオルディリージとドラベッラ姉妹とドン・アルフォンソ

序曲が始まり幕が上がると、広いサロンの庭を臨むバルコニーでのパーティー・シーンである。
パーティーに集う人々は、ロココそのものの服装と現代のパーティー・ドレスとが入り混じっ
ている。
それが丁度半々くらいの割合で、互いに違和感なく、挨拶や会話を交わしたりしている。
招待客が現代の服装で、給仕がロココの格好をしているのかと思えばそういうわけでもない
ようだ。
不思議な光景といえばいえるが、誰も不審に思う人は舞台上にはいない。
不審といえば、一番不審なのが、ドン・アルフォンソとデスピーナである。
ロコロの格好で、招待客とキスの挨拶を交わしたりして、まるでパーティーの主催者気取り。

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          ケルスティン・アヴェモのデスピーナの服装にびっくり。

広間の壁には、描きかけのワトーらしき絵のコピーが掛かっている。『シテール島への旅立ち』
か『音楽の集い』のようである。
そして、デスピーナの姿はワトーの描くピエロ(ジル)とまったく同じなのだ。

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       ジルは宮廷の道化で、貴婦人たちをからかったり辛辣なジョークで皆を煙に巻く。

これらの舞台および衣装デザインによって、このプロダクションの基調トーンは明らかだ。
一言でいうと、メランコリックな恋の戯れということになろう。ワトーの絵からヴェルレーヌの
詩、そしてドビュッシーの音楽に繋がる『雅なる宴』や『喜びの島』の世界である。
そういう印象を観客に最初に視覚的に植え付けて、ドラマはその通りに進行するのだった。

特に惹かれたのは、デスピーナ役のケルスティンちゃんの表情と演技だ。
ピエロの服装ではあるが、ケルスティンちゃんの少年と少女が入り混じったような顔立ちは
いつものように性も年齢も不詳で、天使のように見えないこともない。
彼女の表情および態度には、よくありがちなデスピーナの小悪魔的な要素が全くないのである。
いつでも皆の様子を醒めた外部者の目(すなわち道化からの視点)で見ているようで、彼女と
それ以外の登場人物は物理的には関わりあっていても、精神的には距離を置いて相容れないと
いうような雰囲気を醸し出している。
それが、メランコリーという実体のない雰囲気をそのまま体現していて、秀逸である。
最もそれをわかりやすくしている例を挙げれば、ドン・アルフォンソがデスピーナを慰める
シーンで、デスピーナの取る態度と姿勢が、デューラー描く『メランコリア』そっくりなのだ。
そして、彼女の眼と表情には、哀しみと憐れみとが混じってほの暗い。

彼女とドン・アルフォンソとの関係も不思議だ。
これを一言でいうならば、愛憎の関係である。ドン・アルフォンソはデスピーナをまるでドン・
ファンのような手練手管で口説いて、悪巧みに引き入れる。だから、当初のデスピーナはアル
ファンソに女性の弱みを掴まれて、悪事をいやいや引き受けた。そういう自分の行動に対する
躊躇や嫌悪を表す表情が素晴らしい。
悪戯のつもりで加担したデスピーナだが、思いがけない方向にエスカレートして暴走して収拾
のつかなくなってしまう2組の男女関係には、いたたまれなくなる。

だから、最後はデスピーナがアルフォンソに平手打ちを食らわせる。アルフォンソも、また、
悪戯の仕置きのようにデスピーナの頬を打つのだ。これも愛と憎しみの表現に他ならないのだが。

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             フェランドとグリエルモが軍隊から戻ってきた。

デスピーナとフィオリディリージ・ドラベッラ姉妹との関係も微妙である。
本来デスピーナは女中という設定なので、字幕でも彼女が使うのは敬語であり、姉妹は彼女に
対してチュトワイエで話す。しかし、態度には女中らしさは感じられない。図々しいわけでなく、
ごく自然に重要な位置を占めているという雰囲気で、それがワトーの絵やヴェルレーヌの詩に
描かれるロコロ宮廷の道化に相当する立場であるデスピーナという今回の設定を表している。
微妙な立場なのだ。

姉妹の服装やヘア・メイクは現代そのもので、まるで『セックス&シティー』などTVドラマを
思わせる。ダ・ポンテとモーツアルトのオペラ作品はいずれも現代に時代と場所を移しても
まったく違和感がない。
普遍的な恋愛の姿と人間の位相を描いているからだ。
最後は喜劇として納めようとデスピーナ=道化は腐心するのだが、男女2組の気まずさはどう
しても避けられない。
ラスト・シーンは現代的な終わり方で、もちろん大団円というわけにはいかないのであった。


指揮のせいなのか、演出家の意向によるのかわからないが、音楽はどうも最初から最後まで
テンポがのんびりしすぎで、疾走感には非常に欠ける。それで、舞台転換のない平面的な舞台
と相まって、全体的に平坦な印象になってしまった。はっきり言って、だれてしまうような
ドライブ感のないモーツアルトというのも、近年まれなのではなかろうか。
テノールとソプラノ歌手は、聞かせどころが多いから得な役なのだが、それでも歌唱を聴いて
いて高揚感に欠ける。諄々たるスローのアリアが多いから、歌唱が弱いと退屈で粗が目立つ。
それ以外の歌手は可もなく不可もなくという感じで、演出と演技力でなんとか最後まで見せた。
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by didoregina | 2013-07-05 14:16 | オペラ映像 | Comments(10)

『ゴーラのアマディージ』@アン・デア・ウィーン劇場

4月のウィーン遠征日程は、マレーナ様主演の『ベアトリスとベネディクト』と演奏会形式の
『ゴーラのアマディージ』を二日続けて鑑賞できる!ということで決めたのだった。
なぜかというと、当初のキャストはイエスティン・デイヴィスのアマディージということになって
いたからだ。生の彼をウィーンで最初に聴いたのはかれこれ2年前の『怒れるオルランド』で、
やはりマレーナ様主演の『セルセ』と連荘できたのだ。

ところが、キャスト発表からチケット発売開始までの間に、イエスティン君は降板してしまった。
代わりはソニア・プリーナ女史である。ええ~、イエスティン君とプリーナ姐とではあまりに
声質もキャラも異なるではないか。そうしてキャストは全員女性になるし、メリッサ役はロベル
タ・マメリ、指揮はアラン・カーティス。う~む。(この一言で、わたしの心境が分かる人には
わかってもらえるだろう)

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          オペラ遠征も、命綱が頼りのビルの外壁メンテも、びくびくもの。


さて、チケットを買おうかどうしようか迷っていると、今度は新たに心躍るニュースが入ってきた。
なんと、ダルダーノ役をフランコ・ファジョーリが歌うらしいと!彼のサイトには載っていないが、
所属プロダクションのスケジュールには記載されていた。
それで、またまた行く気満々になった。しかし、劇場サイトにはフランコのフの字も出ていない。

『ベアトリスとベネディクト』のチケットは発売開始日に即ゲット。二泊三日の予定でフライトも
予約した。
しかし、『ゴーラのアマディージ』チケットだけはぎりぎりまで買わなかった。劇場サイトでは、
ダルダーノ役は、デルフィーヌ・ガルーになっていたからだ。事務所サイトのからもフラちゃん
『ゴーラのアマディージ』出演公演予定はいつのまにか消えていたし、公演3日前になっても
キャストは代わらず。今回はカウンターテナーが1人も出演しないのが残念だが、それは諦めよう。
ようやく重い腰を上げて、当初の予定通りチケットを購入したのだった。

c0188818_18564157.jpgAmadigi di Gaula
Opera seria in drei Akten (1715)
Musik von Georg Friedrich Händel (1685-1759)
Libretto unbekannt, wahrscheinlich Nicola Francesco Haym oder Giacomo Rossi

Musikalische Leitung Alan Curtis
Amadigi di Gaula Sonia Prina
Oriana Emoke Baráth
Melissa Roberta Mameli
Dardano Delphine Galou
Orchester Il complesso barocco

25.04.2013 @ Theater an der Wien







二年前にアン・デア・ウィーン劇場で演奏会形式の『怒れるオルランド』を鑑賞した時は、背後の
『セルセ』舞台セットを見せる形式だった。オケ・ピットに入っていたのは、『セルセ』同様に
スピノジ指揮のアンサンブル・マテウスで、スピノジはラ・フォリアのヴァイオリン・ソロも披露
してくれた。

今回も演奏会形式であるが、カーテンが下りていて歌手はその前に立って歌う。
オケ・ピットに入っているのは、カーティス指揮のイル・コンプレッソ・バロッコである。
今回は例のCTでもあるというロシア人コンマスではなくて、女性のコンミスだった。第一
ヴァイオリン4人、第二3人という小編成なのでチェロも1人。それと通奏低音はチェンパロに
テオルボ。
まるで室内楽のようにに器楽演奏者たちはコンミスの呼吸に合わせて息のあったアンサンブルを
作り出していて、例の四角四面のカーティスの指揮を見ている人はいないようだった。

古楽器では金管が特に難しくて、トランペットやホルンなどよく音が外れて聴こえたり、出だし
が上手く決まらないのだが、ここのトランペット奏者は、ソロ部分の出だしでも全く余裕しゃく
しゃくでびっしりと決めてくれた。バロックでトランペット・ソロを安心して聴けるというのは
得がたい。

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       左からソニア・プリーナ、エメケ・バラート、ロベルタ・マメリ。
       プリーナ姐の髪型は、忌野清志郎やシド・ヴィシャスを思わせパンキッシュ。

出演歌手はたったの4人で、女性ばかりである。

アマディージ役はソニア・プリーナ。録音で聞く彼女の声は独特で、硬い芯を中心に表面は
まろやかな輪郭で覆われた、ある意味女性らしい艶があるがドスの利いたアルトである。
いかにもイタリア人らしい発声の女性らしさを感じさせるアルトというのがイマイチ好きに
なれず、積極的に生の声を聴きたいと思ったことがなかった。
それが、実際に生の声を聴くと、録音では好きになれなかった要素がまるで異なる印象を与え
たのだった。即ち、豪華絢爛・金襴緞子のような色彩が放出される声質が心地よく、夜空を彩る
原色の花火にも似たドッ派手さが潔い。

好きなタイプのアルトというと、キャスリーン・フェリアーやナタリー・シュトゥッツマンの
光沢はあっても暗い色合いのビロードのような声、サラ・ミンガルドのように薄手ウール・
スカーフのような滑らかで軽く暖かい声、マリヤーナ・ミヤノヴィッチのように麻のように
爽快感のある声などで、いずれもシンプルでベーシックな質感が命だ。プリーナ姐のそれとは
全く正反対のしっかり地厚で素材感よりは色彩感の
勝る帯地のような生の声に触れて、はっとする思いであった。歌唱という芸でも群を抜いている。
その新発見ができただけでも、遠征してこのオペラを鑑賞した価値があるというものだ。


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          ソニア・プリーナに敬意を表してポスターとツーショット。


そして、やはり生の声に接して感嘆したのは、ロベルタ・マメリ女史である。彼女の歌唱も
濃~いタイプなので、今まで録音ではなんとなくヒケてしまっていたのだが、ほとんどめっけ
もの新発見。
こってりと熱い歌唱で盛り上げるのだが、生舞台ではこのくらいやっても差し支えない。
同じイタリア人同士のソニア姐との競演はまさに色彩の饗宴で、ゴージャスこの上ない。
マメリ女史はルックスもゴージャスで、この日のメイクとドレスのおかげで某高級時計の
イメージ・モデルであるケイト・ウィンスレットそっくりなのだ。
バロック歌手というと、一般オペラ・ディーヴァと比べるとストイックで質素なイメージが
あるのだが、この二人は違う。この色彩感はイタリア人独特なのではないだろうかと思える。
ここにフラちゃんが加わっていたらどれほど豪華絢爛になっただろうか、とそれだけが惜しま
れた。
それにしても、今まで敬遠していた二人の歌唱に開眼できたので、食わず嫌いで損していたなあ、
と反省することしきりだ。


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          左から、マメリ、カーティス、デルフィーヌ・ガルー。


もう1人のソプラノ、エメケ・バラートは、いかにもお姫様役にふさわしい正統清純派バロック・
ソプラノで、可憐なのだが、このアクの強いメンツの中にいると霞んでしまって印象に残らない。
ストイックな歌い方と声質なので、どちらかというと硬質で温かみの少ない声のCTとの相性の
方がいいのではないかと思う。

ダルダーノ役というのは、出番が少なくて損だ。そんなつまらない役をフラちゃんがふって当然。
そして、ガルーは声も体格も線が細すぎて、舞台栄えしない歌手である。すらりとしていて
ズボン役など一見似合いそうだが、全く押し出しが弱いから、舞台での男性役には向いていない。
声の飛ばし方に問題があるのだろうか。客席に響いてこないのだ。前回かなりがっかりさせられ
たので、彼女には期待していなかったが、今回も印象を塗り替えることはできなかった。
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by didoregina | 2013-05-10 13:37 | オペラ実演 | Comments(16)

『ベアトリスとベネディクト』@アン・デア・ウィーン劇場

マレーナ様はすでにバーデン・バーデンでの『ドン・ジョヴァンニ』リハーサルに余念が
ない現在、ウィーンの『ベアトリスとベネディクト』レポなど、ほとんど今更の感があるが、
備忘録として一応残しておこう。
実演鑑賞したのは既に1週間半も前のことである。記憶はかなり薄れてしまっている。
記憶に残りにくいというのは、『ベアトリスとベネディクト』がオペラ作品としてかなり
特殊な部類に属するものであるということも大きな理由だと思う。

c0188818_533637.jpgBéatrice et Bénédict
Opéra-comique in zwei Akten (1862)
Musik und Libretto von Hector Berlioz
Nach der Komödie "Much ado about nothing" von William Shakespeare

Musikalische Leitung Leo Hussain
Inszenierung Kasper Holten
Bühne Es Devlin
Kostüme Moritz Junge
Licht Bruno Poet

Béatrice Malena Ernman
Bénédict Bernard Richter
Claudio Nikolay Borchev
Héro Christiane Karg
Ursule Ann-Beth Solvang
Somarone Miklós Sebestyén
Léonato Thomas Engel
Don Pedro Martin Snell
Une femme Madeline Ménager-Lefebvre
Orchester ORF Radio-Symphonieorchester Wien
Chor Arnold Schoenberg Chor (Ltg. Erwin Ortner)

2013年4月24日@アン・デア・ウィーン劇場

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ベルリオーズ作曲のこのオペラの予習としてCDを繰り返し聴いたのだが、ほとんど頭に
残らない。通常、仕事しながらとか家事をしながらのながら聴きでも、耳にたこが出来る
くらい聴いてるうちに序曲とか主要アリアとかのメロディーはいやでも耳に残り、追い
払っても頭の中を巡るものである。
しかし、このオペラは通して聴きにくいのだった。仕事とこの曲の両立は無理だった。
なぜかというと、各場面ごとに物語の説明のような語りの部分が入るからで、その語りの
部分は音楽とは切り離されていて器楽演奏もなくなるのだ。そしてそれがまた、聴くものを
イライラさせるような朗読調のフランス語で前後の音楽と全く相容れない。まるでTV番組
の途中に入るCMみたいな違和感があり、パブロフの犬的反応でトイレに行きたくなったり、
思わず別の局(曲)にリモコンを合わせたくなる。かなりうざったく、不快にさせるので
あった。

実演の方は、その点まだマシだった。ト書きみたいな台詞の朗読ではなく、舞台上で歌手が
台詞をしゃべるし、しかもかなり演技の上手い歌手ばかりだから思わず席を立ちたくなる
ことはない。しかし、音楽が途切れてしまうのはCDと同様だ。レチタティーヴォのように
音楽の一部というか続きのような風にはいかない。オペレッタ風と言えようが、台詞の部分が
かなり多くオペラというより芝居に近い。

歌手としては、こういう作品を歌い・演じるのはいかがなものだろうか。思うに、しゃべる
のと歌うのとでは相当喉の使い方が異なるから、台詞と歌唱とをスムーズに往復しつつ落差を
感じさせないというのは大変なことだ。喉への負担はいかがなものだろうか。そういう心配を
させるような作品なので聴く方も音楽にのめりこみにくい。また、音楽自体もぶちぶちと
途切れてしまうのだ。

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カスパー・ホルテンは、このオペラらしくないオペラを、割りとオーソドックスに芝居また
はオペレッタ風に演出した。それらしくかなりベタなオーヴァー・アクション満載である。
舞台の造りは、背景が半円状の劇場客席のようになっていて、中央に回り舞台。その中心に
回り舞台を半分に分割するミラー状の壁というか襖のようなものがあって、場面によって
高さが変わる。
それが、男女を分かつ壁になったり、テニスのネットになったりする。
舞台上の客席に上る階段とそして沢山の椅子。セットも機構の使い方も、アン・デア・
ウィーン劇場のこれまでのプロダクションで見たことがあるようなものばかりだ。う~む、
かなり予算をけちったのか。

ストーリー自体がたわいのないコメディなので、ストレートな演出だと、つける演技もオー
ヴァーになるのもやむを得まい。そういうコメディエンヌ的オーヴァー・アクションは、
マレーナ様の得意とする
ものではあり、演技はべらぼうに上手いのだが、どうも喜劇専門のワン・パターンに陥って
いるような気もする。ファンとしては、オペラ・セリアで深刻そうな表情のマレーナ様を久
しぶりに見たい。

前半はとにかく歌が少ないのが残念で、またオックス男爵みたいなキャラのソマローネが
ドイツ語の台詞をしゃべったりする場面が長くて退屈だった。ベアトリスとベネディクトの
テニスのシーンなどは見ていて楽しいのだが。
後半になって、待ちに待ったアリアやデュエットを続々聴くことが出来、前半のだれた雰囲
気から一気に舞台も締まった。歌が相対的に少ないオペラだから、マレーナ様は喉をセーブ
する必要がなく、演技しながら歌うシーンも最初から最後までパワフルだった。
しかし、ここぞと自慢の喉を披露できるソプラノは得である。特に贔屓でもないがクリス
ティアーネ・カルグは声を出し惜しみせず盛り上げたので、カーテン・コールでも一番拍手を
貰っていた。嫌味のない歌唱と声の持ち主なのだが、どこか意地悪そうで老けて見えるルック
スが好みではない。
ベネディクト役のベルナルド・リヒターは、背丈もルックス的にもマレーナ様とは美男美女の
組み合わせでヴィジュアル面では文句ない。歌はあまり印象に残っていないが、問題もない。

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         すらりと長身のマレーナ様は、また少し痩せたような気がする。

今回のオペラ鑑賞には、義母と義妹も同行した。前半は台詞が多いのに閉口していた二人だが、
後半の歌には堪能できたようだ。そして、コメディエンヌのマレーナ様には感嘆していた。
だから、終演後には二人も楽屋口での出待ちに誘った。
さほど待つこともなくマレーナ様が出てきた。平日ということもあり、出待ちしていたのは
私達三人の他は、スウェーデンから来た初老の女性2人組だけである。丁度、私達の前の座席
に座っていた。
外に出てきたマレーナ様に声をかけると、向こうからハグ。これで何度目?という回数の
おっかけと出待ちだから、御覚えめでたいのも当然。
マレーナ様は、翌早朝バーデン・バーデンへ飛んでリハーサル、そして翌々日にはまた
ウィーンに戻り舞台出演という忙しさだと言う。
義母と義妹もマレーナ様に紹介。翌朝早いから、皆でわいわいどこかに繰り出すというわけ
にもいかない。またハグして、次回はバルセロナでの再会を期して別れた。

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            桜の花びらの散る小紋に砂子で金を撒いた袋帯。
            花びらに合わせて、白地に桜の花びらの模様の
            帯揚げと白に近い象牙色の帯締め。草履も白。
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by didoregina | 2013-05-06 00:11 | オペラ実演 | Comments(6)

デュモーの脱トロメオ宣言に喝采!

(追記・訂正あり)
現在メトロポリタン・オペラで上演中、4月27日にHDで全世界ライブ映画公開される
『ジュリオ・チェーザレ』にトロメオ役で出演中のクリストフ・デュモーが、FBで
脱トロメオ宣言をした。



       METのドレス・リハーサル。デュセのクレオパトラに
       口ひげ生やしたトロメオのデュモー選手


グラインドボーンでのマクヴィカー演出『ジュリオ・チェーザレ』で鮮烈な印象を残して以来、
トロメオといえばデュモー、デュモーといえばトロメオというイメージが確立された。
今回のNY公演で、トロメオ役100回を達成したデュモー選手である。
その後5月・6月にはパリのオペラ・ガルニエでも公演があり、6月18日には120回目になると
いう。
それほどトロメオは彼のハマリ役十八番で、各地の歌劇場から声がかかるのは有り難いこと
ではある。

しかし、デュモーの才能と魅力を知るファンとしては、トロメオ役に限定されているという
状況はあまり好ましいとは言えない。彼の歌手としての可能性も野望も、もっともっと大きい
はずである。
若いうちからイメージが固定されてしまうのはよくない。わたしは何年か前から現状打破を
望んでいた。
だから、FB上での脱トロメオ宣言および今後の予定を見て狂喜した。

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まず、CDリリースに関するファンからの質問に答えて
「バルトリとのチェーザレは、まもなくDVDが発売されます。多分CDも。今後二年間には、
他のオペラ(世界初演)2作も予定されています。それからCDリサイタルも。でもこれはまだ
はっきりとはわかりません。」と書き込んでいる。

昨年のザルツブルクでのバルトリ姐クレオパトラ、ショル兄チェーザレのプロダクションは、
やはりDVD発売が決まっている!素晴らしい歌手揃いなのに、演出はあまり上等とはいえ
ないものだったから、CDの方がよさが堪能できるだろう。

また、ファンからのコメントに応えて、こう書いている。
「2011年のヴェルサイユでは、チェーザレ役でした。チェーザレを歌うのは楽しいことでした。
チェーザレはトロメオよりも複雑で興味深い人物なので、演じるのは難しいですが、楽しく
やりがいのある役でした。2015年に再演される予定です。しかし、トロメオ役に関しては、
わかりません。でも正直に言えば、もう演じることはないと思います。」

そして、今後の予定として
「2015年にモネ劇場で『タメルラーノ』に出演します。2013年は、チューリッヒでヴィ
ヴァルディ、マドリッドとパルミで『インドの女王』に出演、ミュンヘンで『ラ・カリスト』
のサティリノ役、チューリッヒで『ウリッセの帰還』の人間の儚さとピサンドロ役。オース
トリア、インスブルック、オスロで秘密のオペラ作品の悪役。ウィーンとブリュッセルで
『ポッペアの戴冠』のオットーネ役、等等。そして、METのすぐ後、パリで最後のトロメオ役」
と書き込んでいる。

新役が目白押しで、ファンとしては狂喜乱舞するほかない。
モネでの『タメルラーノ』(タイトル・ロールよね?)と『ポッペア』のオットーネは、
いずれもデュモー選手にとってロール・デビューで、大きな挑戦だ。
(追記:マネージメント事務所の正式バイオによると、タメルラーノ役はアメリカ・チャール
ストンのスポレート・フェスティヴァルで歌っており、『ポッペア』のオットーネも既に
グラインドボーン、パリ、ジュネーブ、マドリッドで経験済み。訂正しお詫びします。おみそれ
しました。)

わたしの予感では、ウィーンとブリュッセルでの『ポッペア』では、ネローネ役はマレーナ様
になりそうな気がする。
(そして、ポッペア役はまたしてもダニエルちゃんで決まりか?)

デュモー選手の最後のトロメオ役と知って、パリで生の舞台を鑑賞したくなってきた。

デュモー選手の今後の活躍を祈って、心から喝采したい。
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by didoregina | 2013-04-19 14:46 | カウンターテナー | Comments(18)

『ペレアスとメリザンド』@モネ劇場

『ペレアスとメリザンド』は、ドビュッシーが作曲を完成させ上演にこぎつけることのできた唯一のオペラ作品である。初演は1902年だから100年以上前であるが、オペラとしては前例のないタイプで、世紀末というより20世紀の幕開けを感じさせる、好きな作品だ。

雲の中に浮かんでいるような、霧か霞のようなヴェールのかかったような色彩を聴覚化したオーケストレーションのとらえどころのなさと、アリアらしいアリアがなく、語りともレチタティーヴォとも言いがたい歌がオーケストラ音楽と渾然一体化して夢幻の世界そのものだが、オペラとしては画期的なその音楽書法に馴染めない人もいるだろう。
これは、絶対に舞台形式で鑑賞しないとよさがわからないオペラである。
そして、主な役はできればフランス語ネイティブの歌手で揃えて欲しい。


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            2013年4月14日@モネ劇場

Pelléas et Mélisande
Claude Debussy   

Muzikale leiding¦Ludovic Morlot
Regie¦Pierre Audi
Decors¦Anish Kapoor
Kostuums¦Patrick Kinmonth
Belichting¦Jean Kalman
Koorleiding¦Martino Faggiani
Pelléas¦Stéphane Degout (14, 17, 19, 23 & 25 April)
Yann Beuron (16, 18, 20 & 24 April)
Mélisande¦Sandrine Piau (23 & 25 April)
Monica Bacelli (14, 16, 17, 18, 19, 20 & 24 April)
Golaud¦Dietrich Henschel (14, 17, 19, 23 & 25 April)
Paul Gay (16, 18, 20 & 24 April)
Géneviève¦Sylvie Brunet-Grupposo
Arkel¦Jérôme Varnier (16, 18, 20 & 24 April)
Frode Olsen (14, 17, 19, 23 & 25 April)
Un médecin¦Patrick Bolleire
Un berger¦Alexandre Duhamel
Le petit Yniold¦Valérie Gabail
Orkest¦Symfonieorkest en koor van de Munt

今まで、モネ劇場では100ユーロ以上の座席に座ったことが一度もなかった。どんなに贔屓の歌手が出る演目でも、せいぜい80ユーロ止まりであった。しかし、安い席すなわち視界に難ありであるのは資本主義の哀しい事実でもある。このところ、あまりに舞台が見切れる席ばかりで欲求不満が溜まっていた。特に、先シーズンから全演目がオンライン・ストリーミングされるようになって、映像と実際の舞台とを見比べ、舞台全体がよく見えない席で鑑賞する短所をイヤというほど知らされてしまったのだ。
それで、今回は、マチネ初日の平土間最前列の席(カテゴリー1)にした。見る気満々である。

当初のキャストは、メリザンド、ペレアス、ゴローにソプラノ+バリトン+バリトンの組み合わせとメゾ+テノール+バリトンの組み合わせの日替わりダブル・キャストになっていた。モネではこういう風にキャストを音域別に組み合わせ、分けたりすることがよくある。主役がメゾとCTに分かれる場合もある。
歌手の組み合わせによって、同じ舞台でも印象は全く異なるものになるはずで、それが狙いなのだ。

わたしが狙っていたのは、もちろん、ピオー(s)、ドゥグー(b)、ヘンシェル(b)の組み合わせで、主役二人はフランス人で理想的。勝手にAキャストと思っていた。
ピオーの出演するマチネは初日だけだ。バラ売りチケットはマチネだと取りにくいが仕方ない。オンライン発売日、なぜか最前列右よりの席が一つだけ空いていたので、迷わずゲット。

しかるに、初日舞台の幕が開く前に、インテンダントのデ・カーリウが目の前に現れた。初日を祝う挨拶ではなかろう。
「サンドリーヌ・ピオーは、数日前から筋肉を傷めており、まことに遺憾ながら
本日から幾つかの公演をキャンセルすることになりました。代役はメゾ・ソプラノのモニカ・バッチェリが務めます。彼女はテノール・ペレアスとの組み合わせキャストで出演しますので、このプロダクションのメリザンド役は歌も演技も精通していて全く問題ありません。ただし、バリトン・ペレアスとの組み合わせは今回が初めてとなります。その点、皆様のご理解を頂きたく、お願い申し上げます」
と言うではないか。

ピオーは筋肉を傷めた、とデ・カーリウははっきりと言った。喉の故障ではないし、病気でもない。筋肉を傷めて出演不可になるとは、一体どんな演技が必要とされる舞台なのだろう。
(帰宅後、モネのサイトを見ると、キャスト変更がアナウンスされていて、ピオーは最後の2公演のみ出演。モニカ・バッチェリが代役で歌う3公演と、ピオーが歌ってバッチェリが演技する1公演がある!それ以外は、全てバッチェリ。)

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         舞台装置模型 (モネのサイトより拝借)

演出はピエール・オーディで、舞台デコールはアニッシュ・カプーアである。(この二人のコンビは昨年のDNO『パルジファル』でも実現)

オーディの演出は、写実的な演技が少なくてゆったり静的な動作と、抽象的なイメージ重視で、一点豪華主義とも言えるシンプルな視覚造形が典型的である。
近現代美術に近いミニマルなアプローチの視覚造形で観客の感性に訴える。舞台装置に写実性も日常性も入り込まず、演技も簡素ですっきりしているので、見る側の想像力を刺激する。基本的に好きなタイプだ。
全体のスケールが大きくてちまちましたところがなく、舞台装置や照明が写実を排した象徴的なものなので、夢幻能のような『ペレアスとメリザンド』のようなオペラには特にピッタリだ。

カプーアも、アーティストとしては割りと好きである。彼がこの作品のためにデザインした舞台デコールなのに、まるでオーディを特徴付けるアイコンそのもの。二人の感性は似通っているのだろう。

巨大な赤いチューブが正面から見るとねじれた円形を形成していて、この形状もカプーアのアイコンそのものである。メヴィウスの輪を思わせるねじれた立体には窪みと膨らみがあって、動物の(人間の)内臓のようでもある。子宮もしくは心臓の一部のように思われる。そう思ったのは、以下のプロローグのような語りからの連想である。

舞台の幕が開く前、音楽が始まる前、暗闇の中で数人の女の子の語りが聴こえてくる。
(こういう、もともとのオペラのリブレットにはないプロローグのような語りや、音楽が始まる前に別の効果音が流されるというパターンの演出が、今シーズンのモネ劇場には何度か見られた。)
「夜が明けたようだわ。太陽の光が隙間からもれてくる。もっと開けて光を見たい。光の方に出て行きましょうよ」というようなミステリアスな内容で、すなわち、誕生とか自由への希求を思わせるのだった。

そして、いつの間にか指揮台に上がっていた指揮者に照明が当たると、オーケストラが音楽を奏で始める。
もたもたと登場する指揮者に拍手、という型どおりのパターンから脱した導入だから、観客は日常から飛躍していきなりドビュッシーの夢幻のような音楽世界に入り込めた。音楽と舞台の一体化を最初から見事に具現している。


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今までこの作品は、『ペレアスとメリザンド』という感じで、タイトルにあるペレアスの影は薄くて、ミステリアスかつとらえどころのないヒロインに男達が翻弄される物語というイメージを抱いていた。ところが、今回のプロダクションでは、ペレアスもゴローもアルケル王も大変に存在感があって、メリザンドの方が、影のような儚い女性像である。
メリザンドを取り巻く男性三人にイニョルドを加えた、男たちのドラマという趣になっているのだった。

残念ながら降板したピオーに代わってバッチェリ演じるメリザンドは、無色透明でつかみ所のない謎の女というより、暗い過去をひた隠しにしている逃亡奴隷、もしくは肉親にいたぶられ続けたせいで精神を病んでるみたいな印象なのだ。
彼女の顔にも声にも、苦悩の色がにじんでいる。メゾのバッチェリの声には、全体に重さが感じられるため、いかにも過去を背負った女という雰囲気になるのだ。
ピオーが出演する日に録画されるようだったら、ストリーミングでは、バッチェリとの違いをディクションも含めてぜひ聴き比べたいと思っている。

メリザンドはスキンヘッドで、薄いドレスの腹部には最初からずっと赤黒い血がべっとりと付いている。
それだけでもいわくありげである。

面白かったのは塔の場面で、世紀末風髪フェチシズムの見せ場なのだが、近年のプロダクションでは、そのものズバリ長い髪の鬘を被ったヘア・メークは避ける傾向があるのだが、今回は、ドレスのウエストあたりにほとんど目に付かないような薄い金髪が付いていて、赤い巨大なデコール上部にいるメリザンドがそのドレスに付いた金髪らしきものを垂らす、というものだった。
童話的ないかにも古臭いイメージから脱却していてスタイリッシュで面白い。

そして、最後の死の床の場面では、メリザンドはブリュネットのロングヘアーになっているのだった。
スキンヘッドというと罪人のイメージに結びつくから、ロングにしたことで彼女の汚れなさ・無実を象徴しているのだろう。
ペレアスとの仲を疑い問い詰めるゴローに応えるメリザンドの「私たちは疑われるようなことは何もしていないわ」にも、そのせいで説得力が加わる。

ゴロー役のディートリッヒ・ヘンシェルは、このところモネ劇場での活躍が著しいというか欠かせない歌手である。
ニヒルなルックスで外観も声にも存在感が充満しているヘンシェルは、嫉妬に心を燃やす中年の王太子という同情されにくく損な役どころのゴローを、魅力溢れる男に変えてしまった。優柔不断なペリアスよりもずっと男らしいゴローだから、彼の苦悩も理解しやすく、観客としては彼に肩入れしたくなってしまう。味わいがあって上手いのである。
中年男の哀愁の表現力という点で、ヘンシェルには端倪すべからざるものがある。

マッチョで狩好きなゴローにとって、メリザンドは森の中の鹿のごとく獲物の性格を帯びて映っているはずだ。動物的肉体の化身であり、征服欲の対象なのだ。だから、彼は自分でも意識せずにメリザンドを追い詰め痛めつけてしまうのである。追う者と追われる者の関係には、接点がないという切なさ。

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         指揮のモルロットとペレアス役のドゥグー

内省的で控えめなペレアスは、言葉少ない、というより理路整然とした話のできないメリザンドに対して、傷つきやすい者同士が傷を舐めあうごときソウルメイトの存在を投影していたのだと思う。
だから、抽象的な会話で成り立つ二人の世界に満足していたのではないか。
それなのに、メリザンドは訳の分からない言葉やコケティッシュな態度で、ペレアスを妙に刺激してしまった。しかし、メリザンド自身は自分の言動のもたらす影響を全く意識していなかったのだ。
それは無知・無垢と言えば言えるし、彼女の罪ではないのだが。

ペレアス役のステファン・ドゥグーが、実に素晴らしい。
今まで、イマイチ印象の薄い人物だなあと思っていたペレアスだが、ドゥグーによってイメージが改まった。この役は、彼のために作られたのではないかと思われるほど説得力がある。というより、もう、ペレアスそのものになりきっている。
テノールに近いような伸びやかな高音で、エレガントな鼻音を響かせる彼のフランス語のディクションの美しさにうっとり。(だから、ピオーとのフランス人コンビで聞きたかったのに!)
苦悩する若き王子ペレアスに、ハムレットやトリスタンの姿が重なって見える。
ドゥグーの来シーズンのモネでの『アムレ』タイトル・ロールにも期待したい。


また、年老いたアルケル王も、なぜかメリザンドには惑わされてしまう。老いらくの恋をひと時夢見てしまったのかもしれない。

そして、イニョルド。
父親に無理強いされて、メリザンドの部屋を覗いたりするのだが、彼も実は若い継母に淡い恋心を抱いていたのではないか。そう思わせるような苦悩のそぶりを見せるのである。

そういう風に、周りにいる男達全てを魅了してしまうメリザンド自身の存在は、実は月の夜の森に漂う霧のように曖昧である。
実体ではなく欲望・望みの投影対象としての女。これもファム・ファタールの一つの典型である。


このプロダクションは、5月4日から24日まで、モネ劇場のサイトからオン・デマンドでオンライン・ストリーミング公開される。

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by didoregina | 2013-04-17 14:54 | オペラ実演 | Comments(6)


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