内田光子によるシューベルト・ピアノ・ソナタ後期3部作

内田光子さんのリサイタルを聴きに行ったのは、もう3週間も前になってしまった。
この3年ほど続けてエイントホーフェンでリサイタルをしてくれた内田さんだが、来シーズン
プログラムには彼女の名前は載っていない。これで当分お会いできないのだろうか。

今回は、シューベルトの最後のピアノ・ソナタ3作を一挙に弾くという気合の入ったプラグラムである。
しかし、彼女の場合、気合が入っていない、ということはありえないような気もする。いつでも全力
投球である。

Mitsuko Uchida @ Muziekgebouw Eindhoven 2011年5月10日

Franz Schubert (1797-1828)
Sonate in c, D958
(1828)
Allegro
Adagio
Menuetto: Allegro - Trio
Allegro

Sonate in A, D959 (1828)
Allegro
Andantino
Scherzo: Allegro vivace - Trio: Unpoco piu lento
Rondo. Allegretto - Presto

pauze

Sonate in Bes, D960 (1828)
Molto moderato
Andante sostenuto
Scherzo: Allegro vivace con delicatezza
Allegro, ma non troppo

シューベルトが亡くなるほんの少し前に作曲されたもので、特に最後のソナタには、文字通り、
白鳥の歌もしくは辞世の句の匂いが漂う。
この3作をまとめて一晩で演奏するというのは精神的・体力的にタイヘンだろう。
ほぼ満席の聴衆も演奏家の気概に応えるべく、背筋を伸ばして真剣な態度で臨んだ。

最初のソナタD958は、いきなり和音の強打から始まる。内田さんは腰掛けたと思ったら一瞬の間も
おかずに、ダーンと弾きおろした。その潔さというか、迫力には、有無を言わせぬ力がある。
この曲には、ベートーヴェン風な要素が散りばめられている。特にアダージョなんて、まるでベートー
ヴェンに聴こえる。どこか煩悩に苦しむような、炎に取り囲まれ炙られ、じわじわと暗い淵に追い詰めら
れて行くような気分を感じさせる曲だ。
聴衆は息を詰めて一音も聞き逃すまいと聴く。ごくりと唾を飲み込みたくても我慢して。
しかし、そういう緊張感が充満したときに限って、携帯が会場のどこかから鳴ったりするのだった。
ありえない、と顔をしかめた聴衆がざわつくが、ピアニストはそんなものに気を取られたりしない。
自分の世界に没頭しきっている。

エイントホーフェンのその晩の客は、特に私の周りの席(平土間前列7列目右より)には、セミプロ
というか、おタクっぽいというか、音楽にはウルさそうな人たちが集まっていたような気がする。大体
エイントホーフェンのミュージックヘボウでは、開演前に「携帯のスイッチは切ってください」などという
アナウンスも表示も出たりしない。ド素人が出没するとはホール側も考えていないのだ。それが落とし
穴だった。

2曲目は、今度はモーツアルト風である。明るく軽い調子で、3作の中では一番くったくがない。
すでに浮世を離れて彼岸に遊ぶ心持だ。
不思議なことに、曲の途中で赤ちゃんの泣き声のようなものが客席から聞こえた。
内田さんは、はっとしたような顔でその声の方向をにらんだ。もちろん、弾き続けながら。
喘息の発作なのか、赤ん坊の声のようなものを抑えられない人は退場していった。こちらは呼吸音も
はばかりながら聞いているのだから、あんたは退場して当然、という雰囲気がわたしの周辺の人たち
から漂った。今晩は、ピアニストも客も真剣勝負なのだ、リラックスして臨むようなコンサートではない
のだから。

c0188818_1651067.jpg












このリサイタルには一人で出かけたので、休憩時間が手持ち無沙汰である。フリー・ドリンクなのは
ありがたいが、その分時間がありあまるのが難である。

休憩後は、ハイライトのシューベルト最後のピアノ・ソナタ、D960だ。
冒頭の数小節を弾いたところで、内田さんが正面を向いて両手を上に掲げた。何か言ったようだが、
誰も聞き取れない。そして、もう一度弾き直しはじめたのだった。なぜか、低音のドロドロドロっという
部分が気に入らなかったようだ。
大体、各曲で2,3回は音を外したり鍵盤をかすったりすることがあったが、その冒頭部分には音の
間違いはなかったように思う。(音を外すたびに、いちいちわたしの斜め前に座ったオバサンたちが
いちいち顔を見合わせているのが、うっとおしかった)

恐ろしいほど早いスピードでしかも弱音で淡々と、しかし、夢の中に誘うような調子で弾いていく。
これは、苦悩を超越した人間による天国への道案内である。暗いトンネルの先に見える光を頼りに
進むのだが、確固たる自信に満ち溢れた演奏だから、わたしたちは目の不自由な巫女の道先案内に
心を任せることができる。そんなハイな気分になって、魂が浮遊していった。

実際、その晩のリサイタルでは、シューベルトの霊が憑依した巫女によるご神託を聴いているような
気分になるのだった。あまりにストックな姿のピアニストと、ケレンミがなく鈴を鳴らすような清冽な音
の連なりに。そして、その凄まじいほどの集中力と求心力!

夢だとはわかっていても見続けたい、目を醒ましたくない、永遠に続いたらいいのに、と願う気持ちに
なる演奏だった。あっという間に終わってしまった印象だが、余韻が心地よく残った。
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by didoregina | 2011-05-25 09:53 | コンサート | Comments(4)
Commented by straycat at 2011-05-29 00:22 x
シューベルトのピアノソナタ21番は(D960)は私も大好き。
日本でモーツァルトのコンチェルトを弾いてくれた時は、リラックスして和気藹々とオケとの掛け合いを楽しまれているようにお見受けましたが・・
内田さんにはモーツァルトよりもシューベルトのメランコリーが合っているような気もします。
あと、顔芸はどうでしたか?笑
日本では弾き振りで忙しく、映像などで拝見する顔芸を発揮する暇もなかったようです。

Commented by レイネ at 2011-05-29 01:34 x
straycatさま、舞台に向かって右より(音響重視で顔芸も見れる)か左寄り(鍵盤が見える)の席を取るかで悩みました。結局、音響と顔芸を選んだんですが、この晩のリサイタルでは例の特異な顔芸はあまり見られませんでした。シューベルトが憑依して彼岸に行ってしまっている、という感じの超越した表情でした。
わたしも内田さんにはシューベルトが一番合っているように思えて、このプログラムなので、おお~っと喜んで聴きに行ったんです。
終わったあとの会場の熱狂ぶりに内田さんもうれしそうでした。
ホール出口に向かう階段で、(着物を着ていたため外人だと思われて)オランダ人から英語で話しかけられました。「ビューティフル」といきなり言うので、着物を褒められたのかと思ったら、演奏のことでした。「素晴らしい集中力の演奏でしたね」と続けたので。
Commented by hbrmrs at 2011-05-29 06:43 x
こんにちは。同じプログラムのリサイタルをこの秋日本でも行うことになっています。私も、何となくイメージですけど、シューベルトは彼女の音楽性にとても合っている気がするので、公演を楽しみにしたいと思ってます。

>シューベルトの霊が憑依した巫女によるご神託を聴いているような・・・そうですね、彼女の凄まじいほどの集中力がそういう感覚にさせるのだと思いますが、まさにそういう演奏を日本でも期待します。世界でこれだけ聴衆を熱狂させることが出来る日本人アーティストは彼女だけではないでしょうかねえ?
Commented by レイネ at 2011-05-29 14:40 x
hbrmrsさま、これら3曲は(だいたいシューベルトに共通しますが)優しい雰囲気なので、フォルテだとアグレッシブに聴こえることがある内田さんですが安心して聴けます。同じプログラムでしたら、ぜひ、お勧めです。
彼女の場合、集中力が求心力になっていて、会場の聴衆を巻き込むのが凄いですね。私達は信者の様相を呈してました。

今日、これからアムスに遠征してきます。例の『ばらの騎士』楽しみ。


コンサート、オペラ、映画、着物、ヴァカンスなど非日常の悦しみをつづります。


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