ネリー・ミリチョウの公開レッスン

ミリチョウは、一昔前のベルカント・ディーヴァとして、オランダでは「土曜マチネの女王@コンセルト
ヘボー」の別名を持つほど有名なソプラノ歌手だ。
その彼女が、今年9月の新学期から、マーストリヒト音大のオペラおよびソロ歌唱の非常勤講師に
就任し、公開レッスンを行うという情報をキャッチした。月・水の両日の午前と午後である。
月曜日の午後3時からのマスタークラスを聴きにでかけてみた。

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舞台に登場したミリチョウ曰く、
「皆さん、お昼ごはん、しっかり食べられました?わたしは、ステージで歌う前にはほとんど何も
食べないのよ。
おなかにものが入ってると思うと、気分的にコンディションが万全じゃない気がして。でも、本番中に
おなかがぐうぐう鳴ると困るから、ほんの少しだけ食べます。
前回、コヴェント・ガーデンで『トスカ』を歌ったときもリハーサルから、朝からビスケット数枚くらい
しか食べなかったので、皆さんが心配してくれたんですけど、いつもそうなのよ」

午後の部の生徒は、ソプラノとメゾが全部で5名だった。

最初の生徒アニーは、マスネの『マノン』から、マノンが最初に登場するときのアリアを歌った。
3小節目あたりから、やたらと声を張り上げる。だから、フランス語の響きも美しくない。
まずは、全部歌ってもらってから、ミリチョウ先生の感想とレッスンだ。

先生「出だしは、とってもきれい。でも、マノンっていったいどんな人だと思うの?」
生徒「美人で、自分の美貌を自覚していて、華やかな生活に憧れ、でも世間知らずの女の子です」
先生「そう、コケットで、周りに来る男は皆、わたしの魅力に参るのよ、なんて言っちゃうような、
自意識過剰タイプでもあるわね。それをイメージしながら歌ったら、今みたいに声を張り上げるんじゃ
おかしいでしょう。もっと美貌から来る自信をアピールしながらも、可愛く歌わなくちゃ」

もう一度、歌わせるが、出だしから数小節でストップさせる。
「だめだめ。声は張り上げるものじゃないわ。それと、皆さん、これは絶対に頭に入れておいて。
唇はキスするためにあるのよ。だから、大口開けて迫ったらだめ。男の人が逃げていきますよ。
それから、母音の発音は口の開け方で決まるんじゃないのよ。空気を喉を通過させるときの喉の開閉の
仕方で決まるんです」

先生が歌って聞かせてくれる。彼女のフランス語の発音は美しくコケットに聞こえる。
先生「この曲は、誰が歌っているのを参考にしてますか?」
生徒「ナタリー・ドゥセイです」
先生「あのね、勉強する場合は、昔ながらの大物歌手を参考にするものよ。もっと昔の人の
スタンダードな録音を聴きなさい」

そんな具合で、一人一人に助言を与えつつ、手本として先生自身も歌うので、時間がかかる。

その後別の生徒が、モーツアルトの『フィガロの結婚』からスザンナのアリアや、プッチーニ
『ジャンニ・スキッキ』から『わたしのお父さん』、シューマンの歌曲などを歌ったが、いずれも
あまり感心できる歌唱ではなく、声の出し方や伸ばし方など、基本的な技術指導になってしまう。
歌手よりも伴奏のピアノの上手さを先生が褒めたくらいだ。
実際、これにはびっくりするほどで、ピアノは伴奏というより、それ自体がオペラを歌っている。
ピアニストが音楽的にリードしていっているのだ。前奏から情感たっぷりのオペラ世界なのに、
歌手が歌いだすとぶち壊し、という感じ。このロバートというピアニストは、多分教師で、伴奏と
いうより歌唱指導もしているのだと思う。

4人目のライラというラテン系の子だけ、群を抜いて上手く、ステージ度胸が据わっていて、彼女の
音楽世界を作り上げていた。ベッリーニの『夢遊病の女』からアミーナのアリアを歌ったのだが、
途中で客席から思わず「ブラーヴァ」が飛んだ。

しかし、先生は
「ライラ、あなたロバートに恨みでもあるの?そんなに怒ったような顔をして、ずっとにらんで。
このアリアを歌うアミーナは、どういう人だと思うの?」
生徒「病気なんです。夢遊病で徘徊してしまう、かわいそうな女の人」
先生「病気で怒りっぽいの?そうじゃないでしょ。かわいそう、と言ったわね。だったら、怒りじゃ
なくて、哀しみを表現しなきゃ。それから、夢遊病なんだから、現実離れした、浮遊感を出さなくちゃ。
たゆたうような。わかる?」
と、ようやく、本格的に音楽的な指導内容になった。
そして、
「他の人は、真似しなくていいんですけど、とにかく、ライラは、このアリアを微笑みながら歌いなさい。
スマイル、スマイル」
という具合に、生徒をリラックスさせた。その指導は非常に効果的だったので、その後の歌には、
本当にはかなげでたゆたうような情感が現れていたのだった。まあ、ライラの歌唱は、すでに完成度が
高かったから、本来の実力がより多く引き出された、という感じなのかもしれない。
ライラは英語があまり得意でないようなので、先生も慎重に分かりやすい単語を選んでの指導だった。
ライラは、マリア・カラス、ジョーン・サザーランド、アンナ・ネトレプコを参考にしているそうで、それには
先生も満足のようだった。

そんなわけで、1時間半という当初のレッスンを大幅にオーヴァーしたが、聴いているほうにもなかなか
示唆に富んだ内容で楽しかった。

水曜日も丁度予定がなかったから、朝10時からでかけてみた。
ところが講堂には誰もいない。たまたまカンティーンにいたロバートに聞くと、ミリチョウのレッスンは
いつでも2日連続だから、月・火で終わった、と言うではないか。しまった、情報はガセねただった。
がっかりしていると、手帳を引っくり返して、次回の公開レッスンの日時を教えてくれた。
12月2日と3日(木・金)である。10時から11時半と3時から4時半まで。
次回も、他に用事がなかったら、ぜひ来ようと思う。





        
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by didoregina | 2010-11-11 14:47 | オペラ実演 | Comments(6)
Commented by ろき at 2010-11-12 07:37 x
これは面白いですねー。
生徒のレベルに合わせて、親切に教えてくれていますね。

「勉強する場合は、昔ながらの大物歌手を参考に」、なるほど。
音楽以外にも応用できそうなヒントです。

聴く方としては、ある程度上手な人の方が楽しいし、高度な指導が見られていいですね。
また行ったらぜひ様子を教えてください♪
Commented by straycat at 2010-11-12 15:53 x
デセイはマノン関してはスタンダードとは言えないから、もっと別の歌手を参考にしなさいと先生はおっしゃりたかったんでしょうか?・・
確かにCDでしか聞いたことはないですが、マノンはデセイの雰囲気ではないような気もしますね。あの軽い声もちょっと違うような気がするし。
先日ウィーン国立歌劇場のガラで、ネト子ちゃん、マノンを大口開けて歌ってましたけど、ネト子ちゃんだから十分コケティッシュでした(笑)

夢遊病の女は、やっぱりベルカントだからサザランド、ネト子ちゃんあたりになるんでしょうか?スピントの方が聞きごたえがあるんでしょうね。デセイのアミーナは、映像でしか見たことないですが、私は結構好きです。

ミリチョウって不勉強で知りませんでしたが、やっぱり現役の歌手なので、実践的な教え方が上手いですね。

Commented by レイネ at 2010-11-12 16:15 x
ろきさま、オペラおよびソロ歌唱専攻で、しかも学内で選考された学生ばかりだと思うのですが、レヴェルには大幅に差が。。。わたしは、ロバートのピアノが、ヘタな歌手よりもずっと上手くオペラを歌っているのに感動しました。こういうピアノの世界もあるんだと。

いろいろなヒントが得られ楽しかったので、次回も都合がついたらぜひ行こうと思います!
Commented by レイネ at 2010-11-12 16:34 x
straycatさま、最近、オペラ歌手の世界もヴィジュアル的には進歩してますが、若手人気歌手の場合、音楽的にはちょっと疑問点があるのかもしれません。
アカデミックな道の同業者間では、スタンダードという枠がきちんとあって、一般観客ウケのいいエキセントリックなのは異端であり、真似すべきものではない、というわけなんだと思います。(昔エジプト観光に行ったとき、お勉強として事前に読んだ本の中で、ライデン大学エジプト学専攻の学生のガイドから、その本は学会からは無視されてるトンデモ本だから参考にしないで、と言われたものがあったのを思い出しました)

ミリチョウはルーマニア出身ですが、長くロンドンに住んでいて、最近はオペラ・ララなどが取り上げるベルカントのマイナーな作品に出演したりするみたい。去年『トスカ』@ROHで、ネトコちゃんだったかアンジェラだったかの大物美人歌手の代役で歌ったというニュースに、びっくりしました。ロンドン在住の方のブログで知りました。

Commented by Mev at 2010-11-12 22:43 x
わー、楽しいですねえっ!ミリチョウ、偉いですよね。なんといっても辛抱強いっていうか。 プロとはいえ、指導者として生きているわけではないので、学生に教えるのは骨が折れるでしょうからね。 でも、優しいなあ。情景が思い浮かびます。
私はラジオでしかミリチョウを聴いたことがないんですが、レイネさんは楽屋でお会いしておしゃべりもしたことがありましたよね。 いいなー。
Commented by レイネ at 2010-11-12 23:27 x
Mevさま、ミリチョウは、個々の学生の長所と短所を一瞬で見抜いてわかりやすく的確なコメントのできる、すぐれた指導者だと思いました。こうやって一ヶ月に一度の割でレッスンを受けたら、どういう風に伸びていくのか、追うのも楽しみ。
東洋人の女の子の喉が調子悪くて、投げやりというか歌いたくない雰囲気が伝わってきたんですが、自分も調子が100%じゃなくても歌わなくちゃいけないことはあるからよくわかる、と言って、喉に無理をさせないような方法で指導しているのも、すごい、と思いました。その子にだけプライベートにアドヴァイスしたいからと、皆を先に帰らせてましたし。
質問のある人は終了後出口で待ってて、とのことでしたから、次回は実のある内容の質問を考えてみようと思います。


コンサート、オペラ、映画、着物、ヴァカンスなど非日常の悦しみをつづります。


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別名: didoregina
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オランダ在住ですが、国境を越えてベルギー、ドイツのオペラやコンサートにも。
ハレのおでかけには着物、を実践しています。
音楽、美術、映画を源泉に、美の感動を言葉にしていきます。


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